写真表現の中で、私の考える最も重要な事項は、それが生きているという証明を残すことである。動物であれば、それが生きているという証明、歴史的建造物であれば、それが長い時間そこに生きてきたという証明を残すことが、写真を撮ることの大きな意義のように感じる。また、どこにフォーカスするか、どういったレタッチを施すかによって、その主のパーソナリティをも窺い知れる点に、写真表現の幅の広さ、面白さを感じる。
梶井基次郎の「檸檬」という作品の中で、彼がなぜ檸檬に惹かれたのかを考えながら、檸檬を手に取ったときの感情に考えながら、本書評を綴っていこうと思う。また、今回はリレー書評ということで、前任者の書評にも触れていこうと思う。
まず大前提として、主人公は「えたいの知れない不吉な塊」の存在に悩まされている。それは、お世辞にもプラスの感情を抱いているとは到底思えない。そうした中で、主人公は「見すぼらしくて美しいもの」に強く惹かれるようになる。前任者はこの原理を、みすぼらしさは一種の儚さを備えており、それを命が尽きそうな自分に重ね合わせていると考えた。ここで言うところの美しさとは、一回性の美しさなのだろうと私は考えた。ひとたびみすぼらしくなった事物は、再び鮮やかさを取り戻すことはない。だが、腐敗の一途を辿る事物にとって、私たちがそれを目にしているその瞬間こそ、私たちの目に映る範囲で最も美しい最期の瞬間なのである。それ以上にもそれ以下にも美しさが変動しない事物は、生きているという生の実感を最も私たちに喚起させるものなのであろう。作中では、賑やかな通りに佇むみすぼらしい店で見つけた檸檬に主人公は強く心惹かれる。視覚・嗅覚・触覚全てにおいて、彼が感じたことが事細かに叙述されており、それにより、彼自身の感覚をもって檸檬に命を吹き込んでいるのだ。
まとめに入る。みすぼらしくなりつつある檸檬は、その腐敗の過程において、一回性という生命の美しさをたたえている。そして、写真表現では、被写体が生きてきた・生きているという証拠を、撮影者それぞれの解釈を付与しながら残すことに大きな意義があると私は考えている。撮影者が被写体にどんな生命の輝きを見出すか。そういった感性を大切にしていきたい。