2019年01月16日 22時04分

写真表現と重ね合わせて・・

Sakurako

梶井基次郎 「檸檬」

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 課題や受験、就職活動・・・・人は何かに追われている時、孤独な不安に押さえつけられることがある。

その不安は明確に表現できるものではない。どこか漠然とした、言語化できない「モヤモヤした何か」なのである。そして、この「モヤモヤ」の圧力が強くて耐えきれない時、その感情を抑制するために私たちはふらっと出かけてみたり、趣味に走ったりと現実を忘れる手段を取るであろう。

 本書の主人公である筆者も、「えたいの知れない不吉な塊」を抱えている。病気や借金に追われる挙句、近しい友人も去って行くというスランプに陥った状態なのである。そんな筆者は「みすぼらしくて美しいもの」に惹かれて、街を浮浪するようになる。壊れかかった建物とは裏腹に勢いよく伸びる植物に出会ったり、閑散とした裏通りを通りながら以前好きだった花火やガラス玉といった色彩豊かなアイテムを妄想したりと、現実から逃れる方法を探っていく。

 「みすぼらしくて美しいもの」に惹かれるのはなぜだろうか。花火は美しく可憐に咲くが、一瞬で散ってしまうという様に、みすぼらしいという言葉はある意味、儚さを持っているのではないか。病を患い、身体的かつ精神的な寿命の限界を感じた自己の幻影に、美しさを追い求めて妄想を繰り広げることで現実の自分を消し去ることに快感を覚えていたのではないか。

過去と現実の狭間で妄想を繰り広げるという点では、写真も似ていると考えた。現実離れした表現が可能な写真撮影の世界では、直感的に見たものが美しいと感じる、或いはより美しくしようと思うことでファインダーを覗くが、もう2度と後戻りできない今が過ぎ去っていく儚さが必ず存在している。だからこそ何気ない風景を自分の感性が赴くがままに切り取り、見たものを残したいという欲求が深まっていく。しかし撮った姿は過去の姿であり、撮ろうと思った瞬間ではない。フィルターを施すにしろ、現像するにしろ、結局後付けなのである。しかし、私たちは現像した写真を見ては懐かしみ、思い出話をして楽しむ。筆者も写真を撮るような気持ちで目で見たものを心のフィルターに焼き付け、過去に纏わる妄想のフィルターをかけることを嗜んでいたのに違いない。

 そして本書のタイトルでもある「檸檬」との出会い。従来イメージしていた、爽やかで酸味のある果物の「レモン」とはまた違う。「モヤモヤした何か」「えたいの知れない不安の塊」といった曖昧な意味とは相反する存在を象徴しているかのように、本書で登場する檸檬から想像し得る存在感は極めてビビッドで、圧倒的な威厳を放っている。そんな檸檬と筆者の出会いが、筆者の感情を大きく揺さぶり、ラストシーンで起こす行動の起爆剤になってゆくのだが、

 読んでいて感じたことは、果実を触るだけで果たして感情が変わるのかということだ。食べる、触る、味わう、ごくごく短い文章であるが、色彩を織り交ぜながらこれほど丁寧な描写がなされている小説は見たことがなかった。また、檸檬をはじめとする登場するアイテムを通して、過去と現実の対極を同時に描く「多重露光」の様な表現の見事さに感銘を受けずにはいられない。


この書評に対するリレー書評:




2019年01月22日 21時35分

生命の息吹

guro

梶井基次郎「檸檬」

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