わたしも読書はしんどい。好きな作家でも、好きな題材でも、本を読んでいると、なにかと戦っているような気分になる。左手でおさえた残りのページを撫でながら、はやく読み終わらないかな、減らないかな、と思う。根性なしの極みだ。しかし、いまわたしが手にしているのは、『私的読食録』と名のつく本。読書ならぬ「読食」。書を読むのではなく、「食」を読む。食べるのは大好きだから、「読食」ならいけるかもしれない、そう思ったわけだ。
『私的読食録』は、かの有名なグルメ雑誌『dancyu』に掲載された、角田光代と堀江敏幸による書評エッセイ百回分(なんと八年分!)を、一冊にまとめたものである。角田氏と堀江氏が交互に、世界中の物語にあらわれる食べものを題材にして、言葉を綴る。食べものが登場する物語は、たくさんある。たとえば『ぐりとぐら』の大きなカステラは、日本中の子どもの夢だった。「幼少期を日本で暮らした人で、『ぐりとぐら』を知らない人はいないんじゃないか。そのくらい有名な絵本だ。ぐりとぐら、といえば、カステラ。だから、この、真っ黄色の大きなカステラも、知らない人はいないということになる」(角田光代「おいしかったなあ、ぐりとぐらのカステラ」)。けれど、食べることは人間の基本的ないとなみ。生活を描けば食事が出てくるのはごく当たり前で、かならずしも食べものが物語の核となっているわけではない。この『私的読食録』のおもしろさは、そういう、すっと読み飛ばしてしまうような些細な食べものも、角田氏と堀江氏という贅沢な給仕人を介して味わえるところにある。
『太宰治全集8』に収められた『冬の花火』のなかに、清蔵という男が、かつて数枝という女と互いの弁当のおかずを交換したことを回想する場面がある︱︱「その時、あなたのお弁当のおかずは卵焼きと金平牛蒡で、私の持ってきたお弁当のおかずは、筋子の粕漬けと、玉葱の煮たのでした。あなたは私の粕漬けの筋子を食べたいと言って、私に卵焼きと金平牛蒡をよこして、そうして私の筋子と玉葱の煮たのを、あなたが食べていました」(太宰治『冬の花火』)。この一節を引いて、堀江氏はこう語る。「要するに、ふたりのあいだにはお弁当のおかずをとりかえて食べられるくらいの親密さがあって、あなたは自分のことを少しは好きだったはずだ、というわけである。台詞のなかで何度も繰り返されるおかずの名。卵焼きは四つのうちのひとつに過ぎないけれど、この反復は涙ぐましさより、むしろ不穏な空気を醸しだす。影が薄いはずの卵焼きに、半熟のエロスと時限爆弾のような恐怖が宿る。ひとは、十年前の弁当の中身を、これほど鮮明に思い出せるものだろうか?」(堀江敏幸「私の筋子の粕漬けと、あなたの卵焼きと金平牛蒡」)。粕漬けの筋子ってなんだろう、金平牛蒡って漢字だととたんにたくましく見えるな、玉葱の煮たのは甘じょっぱいにちがいない︱︱ちがう! 卵焼きだ! 「半熟のエロスと時限爆弾のような恐怖が宿」った卵焼きだ! 鮮やかすぎるおかずの交換に、いびつな愛のいとなみを重ねる。あなたがくれた卵焼きが、わたしの血となり肉となる。いったい誰が、卵焼きをそんなふうに「読食」できただろうか。
最強の給仕人二人がつぎつぎとサーブする作品は、どれも食べ応えじゅうぶん。咀嚼して飲み込むために、ページを繰る手が止まるくらいだ。読んで読んで読みまくって、噛んで噛んで噛みまくって、気づけばお腹いっぱいになっている。連載は、現在もなお続いている。ふたたび一冊にまとまったときは、こんどはどんな物語を味わえるのだろうか。