2018年12月09日 04時45分

欲望の散歩

fumasa

萩原朔太郎 「猫町」

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 「退屈」は人を殺す。ペンは剣よりも強しと言われることもあるが、退屈は時にペンをも凌ぐほどの猛威を振るうものである。合法違法を問わず、程度に大小がありはするが、酒や麻薬というブツに手を伸ばしてしまうのも、退屈が津波のように押し寄せてくる苦痛を鑑みれば、私たちもそれに同情する他ないのではなかろうか。たとえば、旅は退屈さに対処する一つの方法である(バッド・トリップに陥らないための)。しかし、旅が見知らぬ街や風景への溢れるロマンを提供できる時間も、恒久に続くことはない。グッド・トリップからもバッド・トリップからも見放された人間ーー萩原朔太郎『猫町』の語り手は、そうして一つの新しい方法を発見する。

 その方法とは格別特異なものではない。散歩である。ただその際に肝心なことは、方角を忘れてしまうことである。つまり、方角感覚を忘れる限り、同じ建物の同じ側面がある日は南向きであり、ある日は東向きになり、あるいは違う側面であるのに毎日南を向いていると感得することで、まるで映画を見るかのように現実と夢の境界を撹乱することができるのだ。その場に居ながら行われる旅、と呼んでも良い。こうして『猫町』の語り手は、モルヒネ無しに空想癖を満足させる手段を見つけたのだが、この手法は旅に限られたものではない。たとえば、一枚の油絵を見、それを表面ではなく裏面として捉えることで、存在しないその絵の「景色の裏側の実在性」を経験することができる。こんな風に書くと、この書き手の空想癖を常人外れした誇大妄想でしかないと思われるかもしれない。しかし、昔の写真を取り出してはかつての想い出に浸り、現実生活の嫌なことを一刻も早く忘れようと映画館やテレビに這入りこむ私たちもまた、「景色の裏側の実在性」に取り憑かれたり、それに頼らざるを得ない存在であるということは否定できないことだろう。

 「猫町」が現れるのもまた、「景色の裏側の実在性」においてである。語り手はある日、U町へ向かうべく山道を歩いていると、目印にしていた汽車の軌道を見失い、木々の中で道に迷ってしまう。誰とも出会うことなく歩き続け、やがて一本の山道を見つけ、麓に到着することが出来た。そしてそこに、辺鄙な山の中とは思えないほどの、無数の建築が立ち並ぶ美しい繁華街を発見する。彼は構成的な調和が通り一遍浸透したこの街に美を感じると同時に、ふとした瞬間に崩壊する予兆を感じ取る。視界の中で徐々に建物が畸形の相を成し、空気の密度が極限まで高まり、そしてとうとう彼は叫び声を上げる。

「次の瞬間には、何人にも想像されない、世にも奇怪な、恐ろしい異変事が現象した。見れば町の街路に充満して、猫の大集団がうようよと歩いているのだ。猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫。どこを見ても猫ばかりだ。そして家々の窓口からは、髭の生えた猫の顔が、額縁の中の絵のようにして、大きく浮き出して現れていた」

 だが意識のバランスはすぐに回復された。今一度目を開くと、猫の姿などどこにもなく、そもそもの大都会に見えたものさえも実際は普通の田舎町であったことが明らかになる。彼はU町に着いていたのだ。

 この小説の語り手は、哲学者の説く「理知」と詩人の直覚する「超常識の宇宙」とを対置し、後者を「真のメタフィジックの実在」として称揚する。では、彼が垣間見た「猫町」とは何であったのか。田舎町の裏側に隠された「真のメタフィジックの実在」と答えたくなるところだが、これはむしろ「猫町」の前に現れていた「美しい繁華街」に該当するだろう。「猫町」は、「真のメタフィジックの実在」が「現実」にめくれ返る、その瞬間に現れる‘何か’である。

 U町周辺の地方の人々が語り手に話してくれた伝説や伝承のことを、彼は迷信的恐怖として捉えている。迷信的、恐怖。ありそうもない物語に取り憑かれ、好奇や恐怖を呼び覚ますのは決して私たちの受動的な行為ではなかろう。あちら側を覗いてみたいという欲望、すなわち退屈を紛らわせるのに、この欲望の散歩に付き合うことは決して間違った選択ではなかろう。

#猫

#萩原朔太郎

#旅


この書評に対するリレー書評:




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