フランスの哲学者ジル・ドゥルーズは、『差異と反復』第三章「思考のイマージュ」において、思考の開始について論じている。ドゥルーズにおいてはこの「思考」が、ベイトソンの言う「学習(ゼロ学習より高次の)」に相当するだろう。ではドゥルーズは、思考はいかにして開始されると考えたのか?
ドゥルーズによれば、「⼈間たちは、事実においては、めったに思考せず、思考するにしても、意欲が⾼まってというよりむしろ、何かショックを受けて思考する」(本書354⾴)のであり、要するに、「「思考させる」もの、思考されるべきものの現前において、強制されてやむを得ずといったかたちでのみ思考する」(本書385⾴)という。
ドゥルーズは、この「思考せよと強制する何ものか」は、「根本的な出会いの対象であって、再認の対象ではない」(本書372頁)と述べる。ここで再認とは「たとえば、これはテーブルだとか、これはリンゴだよとか、これは蜜蠟であるとか、こんにちはテアイテトス」(本書360⾴)などといった判断行為を指す。この段階はベイトソンの学習理論における「ゼロ学習(または学習n−1)」に相当するだろう。だとすれば、ドゥルーズもベイトソンと同じく、思考=学習(学習n)は、再認=ゼロ学習(学習n−1)によって予測・対処できない状況や、再認=ゼロ学習(学習n−1)に矛盾が生じるような状況に置かれることから始まると考えていることになる。
ところでドゥルーズは、同じ『差異と反復』第三章で、「愚劣は、[人間を除く]動物の本質ではない。動物は、動物を愚劣な存在にさせないそれ特有の形式によって保護されている」(本書401頁)と述べている。ドゥルーズ研究者の千葉雅也によれば、ここで「[動物]それ特有の形式」とは「本能」を指すという(千葉雅也『動きすぎてはいけない』河出書房新社、2013年、235頁参照)。つまり、ドゥルーズは「動物は、思考のパターンが本能的に有限であるためにいつでも賢い、つまり、わけのわからないショックから保護されているのであり、本能から外れて愚かに=創造的になることができない」(『動きすぎてはいけない』235頁)と述べているのだ。動物は常に本能に従っているため、そこから外れた「愚か」な反応=失敗を犯すことはないが、かわりに創造的になることもできないというわけである。
千葉も指摘するように、こうしたドゥルーズ哲学の人間中心主義的側面に対しては警戒が必要である。が、ここで注目したいのも、やはりベイトソンの学習理論との共通性である。あらためてベイトソンの論文を振り返ろう。ベイトソンはゼロ学習状態にあるものの(極端な)例として、ゲーム理論における「プレイヤー」を挙げている。ベイトソンによれば、ゲーム理論において「ゲームの内部から出てくる問題であれば、「プレイヤー」は定義上、その解決のために必要なあらゆる計算を行うことができるばかりか、その計算が適切なものであるときに、それを行わずにいることができず」、さらには計算によって「答えが出たときには必ずそれに従わなければならない」(『精神の生態学』388-389頁)。したがって、ゲーム理論におけるプレイヤーは、同一条件下では常に同じ「正しい」反応しか示せない。そのためベイトソンによれば、プレイヤーはゼロ学習より高次の学習を行うことができないとされる。言い換えれば、ゲーム理論のプレイヤーは、失敗を犯すことがないかわりに、失敗から学習する(これはゼロ学習より高次の学習だ)こともできないのである。
このようなプレイヤーの特徴は、ドゥルーズ哲学における「動物」の特徴と一致する。だとすれば、ベイトソンの学習理論における「失敗」は、ドゥルーズ哲学における「愚劣」に対応するだろう。両者の相違は、ドゥルーズが「失敗」=「愚劣」を人間に特権的な能力と見なしているのに対して、ベイトソンはそれを人間に特権的な能力とは見なしていない点にある。