2019年05月24日 11時37分

ラーニング0・Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ

小田崇仁

グレゴリー ベイトソン 「精神の生態学」

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 『精神の生態学』は、二十世紀を代表する知の巨人グレゴリー・ベイトソンが発表した多数の論文および講演録をまとめたものである。ベイトソンは人類学・精神医学・進化生物学・動物行動学・サイバネティクスなど、ありとあらゆる学問領域を縦横無尽に駆け抜けながら、「精神」や「コミュニケーション」の本質を問い続けた人物だ。『精神の生態学』所収の論文「学習とコミュニケーションの階型論」は、そうしたベイトソンの思索のなかでも特に重要な位置を占めている。そこで以下にその内容を要約しよう。

 当該論文でベイトソンは、広義の「学習」を、論理学者バートランド・ラッセルの「論理階型理論」に依拠しながら分類・考察している。ベイトソンによれば、「論理階型理論」が示すのは、集合はその集合自体の要素には含まれないということだ。要するに集合とその要素とでは「階型」が異なるのである。

 こうした集合と要素との区別を下敷きとして、ベイトソンは学習を暫定的に以下の五段階に分類している。すなわち、ゼロ学習・学習Ⅰ・学習Ⅱ・学習Ⅲ・学習Ⅳの五つである。これらの学習カテゴリーは集合-要素関係と同様に、それぞれ階型を異にし、ゼロ学習から学習Ⅳに向かって徐々に高次の階型に属すとされる。

 では、はじめに最も低次の階型に属する「ゼロ学習」から見ていこう。ゼロ学習とは、インプットに対する反応が常に一定している状態を指す。ベイトソンは学習を変化のプロセスとして捉えているが、ゼロ学習ではそうした変化が起こらない(そのため「ゼロ学習」と呼ばれる)。

 つぎに「学習Ⅰ」である。学習Ⅰではゼロ学習において固定的だった反応に変化が起きる。ただし、この変化は、あくまで同一の選択肢集合の内部で起こるとされる。

ベイトソンは学習Ⅰの例として以下を挙げている。①「慣れ」=「ある出来事の繰り返しに対し、そのつど反応を示していたものが、明らかな反応を示さなくなる変化」、②古典的条件付け=たとえば「ブザーの音に対して、時刻t1にはヨダレを垂らさなかった犬が、t2にはヨダレを垂らす」ようなケース、③「一度できあがった学習が、崩壊したり消失したり抑制されたりするケース」(以上すべて本書392頁)などである。

 さて、今度は「学習Ⅱ」である。学習Ⅱは学習Ⅰに生じる変化を指す。精確に言えば、学習Ⅱとは「選択肢群そのものが修正される変化」(本書399頁)、あるいは「行為と経験の流れが区切られ、独立したコンテクストとして括りとられる、その括られ方の変化」(本書400頁)である。ベイトソンによれば、学習Ⅱの役割のひとつは「学習Ⅰのレベルの問題解決に費やされる思考プロセス(またはニューロン経路)の経済性を獲得することにある」(本書412頁)。わかりやすく言えば、学習Ⅱを経ることによって、「生のシークェンスの多くを、いちいち抽象的・哲学的・美的・倫理的に分析する手間が省ける」(本書412頁)のである。

 しかし学習Ⅱには副作用も伴う。というのもベイトソンによれば、学習Ⅱを経た有機体は、コンテクスト(外的な出来事および当の有機体の行動が成す全体)が学習Ⅱによって期待される形に収束する仕方で行動する傾向を持つからである。このことは、学習Ⅱによって獲得された内容が、自らの妥当性を自動的に強化するはたらきをもつことを意味する。そのため、いったん学習Ⅱが完了してしまうと、それを根本から解消したり、変更したりすることは困難になる。ベイトソンは性格や習慣、人生観といったものも学習Ⅱによって獲得されると述べているが、それらが大抵の場合に変更困難であるのは、そこに上記のような「自己妥当化」がはたいているためだろう。

 最後に「学習Ⅲ」である。学習Ⅲは学習Ⅱに生じる変化を指す。厳密に言えば、学習Ⅲとは「代替可能な選択肢群がなすシステムそのものが修正されるたぐいの変化」(本書399頁)である。こうした変化は、学習Ⅱに矛盾が生じることでもたらされるという。

ベイトソンは学習Ⅲのパターンを以下のようなリストにまとめている。①「学習Ⅱのカテゴリーに入る習慣形成を、よりスムーズに進行させる“能力”や“構え”の獲得」、②「起こるべき学習Ⅲをやりすごす抜け穴を、自分自身でふさぐ能力の獲得」、③「学習Ⅱで獲得した習慣を自分で変える術の習得」、④「自分が無意識的に学習Ⅱをなし得る、そして実際行っているという理解の獲得」、⑤「学習Ⅱの発生を抑えたり、その方向を自分で操ったりする術の習得」、⑥「Ⅱのレベルで学習される学習Ⅰのコンテクストの、そのまたコンテクストについての学習」(以上すべて本書412頁)である。

 リストのなかには、学習Ⅱを増大させるものもあれば、逆に制限したり、減少させたりするものもある。だが、いずれの場合においても、「学習Ⅱで得られる前提により大きな流動性——それらへの捕らわれからの解放——が得られる点に変わりはない」(本書412-413頁)。学習Ⅲは有機体を学習Ⅱの束縛から解放するのである。

 しかし、学習Ⅲには同時に「“自己”の根本的な組み替え」(本書413頁)が伴う。なぜなら、自己とは性格や習慣などの「学習Ⅱの産物の寄せ集め」(本書413頁)だからである。だとすれば、学習Ⅲの段階に到達し、学習Ⅱで獲得した前提に流動性がもたらされるにつれて、「“自己”そのものに一種の虚しさが漂い始めるのは必然だろう」(本書413頁)。そのためベイトソンによれば、学習Ⅲには危険が伴い、「その落伍者にはしばしば、精神医学によって「精神病者」のレッテルが貼られる」(本書415頁)という。だが逆に、「学習Ⅲがきわめて創造的に展開した場合、矛盾の解消とともに、個人的アイデンティティーがすべての関係的プロセスのなかへ溶出した世界が現出することになるかもしれない」(本書415頁)と、ベイトソンは述べている。

 ここまでゼロ学習・学習Ⅰ・学習Ⅱ・学習Ⅲの四つを順番に見てきたが、以上に加えてベイトソンは「学習Ⅳ」という、さらにもう一段高次の階型に属す学習プロセスの存在も示唆している。学習Ⅳは学習Ⅲに生じる変化を指すものであるが、ベイトソン自身も「地球上に生きる(成体の)有機体が、このレベルの変化に行きつくことはないと思われる」(本書399頁)と述べているように、学習Ⅳはあくまで論理的に想定される仮想的存在である。

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