2019年01月23日 07時31分

これは『書評』ではない

hirotaka

星新一 「地球から来た男」

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 本というモノを愛している。物語や知識を求めている。しかしながら私は読み物を憎んでいる。ついでに、「読書は素晴らしいものだ」という風潮を憎んでいる。

 趣味の欄。小学生の私は素直に「ゲーム」と書こうとした。そうすると、「ゲームはやめたほうがいいんじゃない」と大人に止められた。別の子は「読書」と書いた。「読書が趣味なのね、素敵ね」と褒められていた。ただ好きなだけなのに、どちらも別の世界に触れるということなのに、どこに大人の言う差が生じるのか分からなかった。このような出来事は二十数年の人生で何度か起こり、そのたびに私は「読書」という高尚な趣味を羨ましくも憎くも感じた。

 本は苦手。誰もがタイトルを知る名作、未知の世界へ誘ってくれる専門書、どこかの誰かの心の内。たくさんの世界を知りたいと思っている。それでも、本を読むのは苦手。文章を読むことができない。手始めに最初のページの最初の一文を読むが、はて、内容が全く入ってこない。本は原則、ページを繰るものだ。ページの隅には番号が振ってある。つまり、その順番に読まなくてはならないのだ。決まった進路があるからこそ、一つ一つを完璧に理解し、先に進まなければならない(と思い込んでしまう)。一文を読み、理解できずまた同じ一文を読み…一向に進まない。そうして自分が嫌になって、面白そうな物語たちにさよならを告げてきた。

 本は好き。私は紙というものが好きなのだ。見ているだけでも、触っていても。そんな紙の集合が大好きだ。文庫本の側面を撫でていると心が落ち着く。そして何より、本の装丁は芸術だ。ずっしりと威厳を放つハードカバーの単行本も、しっとりと手に馴染むソフトカバー付きの文庫本も愛しい。フォントも、行間の大きさも、ノンブルを打つ位置も、しおりも、みんな違うながらに一つになって、それはまるで総合芸術だ。そんな装丁の中で一番の華は、なんといっても表紙だろう。

 本というモノが好きなので本屋に行くのは楽しみだった。背表紙を眺め、平台を眺める。すると、一冊の文庫本が目に飛び込んできた。

 地球から来た男 星新一

 当時中学生だった本知らずの私は、「ショートショートの星新一」すら知らなかった。もちろん惹かれたのは表紙だった。かわいらしく、幻想的な絵だった。誰が描いたのだろう?本を手に取り、そでの部分を見る。片山若子という人だった。さらに本文のページを繰ると、版画のような挿絵がいくつもあった。それも、片山若子という人の作品だった。表紙の独特で柔らかい色使いとは打って変わって、モノクロのイラストはどこかダークさを感じた。どちらも一人の作家から生み出されていることは感じ取れる。それでも、二つの顔を持つかのごとく魅力的な世界だった。挿絵に見とれたついでに文字にも注目すると、一遍一遍が数ページの、とても読むのが簡単そうな小説だった。これならきっと読める!なけなしのお小遣いで、人生で初めての表紙買いをした。

 小説は幸い、完読することができた。そして自分はSFというジャンルが好きだということを知った。平台で瞬いていたイラストは、挿絵の持つ世界と同時に私を物語としての本につないでくれた。そのきっかけが、星新一とSFに結び付いた。おかげで星新一作品と、片山若子さんの絵が表紙の本は買ってしまうようになった。しかしショートショートは読めるものの、他の小説が読めない。やっぱり私は、本は好きで苦手らしい。


この書評のリレー元書評:




2019年01月16日 15時47分

ありのままに

杉町 愛美

福永令三「クレヨン王国新十二か月の旅」

 昔から本は挿絵か色が無いと読めなかった。何か視覚刺激が無いとものの数十秒で字を追うのをやめてしまう。文中に気になる言葉が出てくると・・・

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