昔から本は挿絵か色が無いと読めなかった。何か視覚刺激が無いとものの数十秒で字を追うのをやめてしまう。文中に気になる言葉が出てくるとそこから物語ではなく、自分の記憶を探って没頭し、また別の事を考える旅に出てしまうからだ。要は物語に対する集中力が皆無なのである。だからせいぜい受験の時や、課題で嫌々文章を読む程度で本を面白いと思ったことがないし、印象も何も残らない。初めて自分から読み始め、読み切ったこの1冊を除いては。
文系学部にいるくせに本嫌いで、というか本が読めないということを実はかなり恥じている。本当なら楽しんで読みたいのに、文字に対する集中力があれば、とかそういったことを物心ついた時から思っていた。と、いうのも母が読書家であり、本を楽しめない自分を否定的に思っているのではないか、という不安があったからだ。
幼少期に『夢のクレヨン王国』というアニメーションを気に入ってビデオを借りては繰り返し見ていた。今思えば母が意図的に見せていたのかもしれない。小学校に上がったころに母が『夢のクレヨン王国』は元は小説で、母が幼い頃に読んで好きだった作品だったことを会話の中でポロっと零した。衝撃だった。まさか自分が見ていた作品(アニメーションは1997年から放映されていた)が母の幼少期(小説『クレヨン王国の十二か月』は1965年)から繋がるものだったなんて。大人になった今では一世代前の作品がリメイクされることなぞ珍しいものでもないことを知ったが、子どもだった当時はその作品のまたがる時の大きさに目を丸くした。そんな話を聞いてか、滅多に行かない図書館に自分の足で向かった。母が読んでいたのは『クレヨン王国の十二か月』だったが、その隣に並べられていた『クレヨン王国 新十二か月の旅』に手を伸ばした。これがこの本との出会いである。
『クレヨン王国 新十二か月の旅』はシルバー王妃という沢山の悪い癖があった王妃が十二か月の旅を経て悪い癖を直した後のお話になる。(この悪い癖を直す旅が『クレヨン王国の十二か月』である)おおまかなあらすじとして、癖のある野菜の精霊たちと失った悪い癖を取り戻しに一月一月の国を訪れていく旅を記したものである。私の見ていたアニメーションはこの『クレヨン王国の十二か月』と『クレヨン王国 新十二か月の旅』を混ぜこぜにしていた。アニメの大きなストーリーとしては十二か月ベースの悪癖を直す旅だったが、そこには新十二か月の旅に登場する野菜たちが同伴していた。なんだかアニメの続きのような物語の始まりに、初めて文字を追う苦痛を感じなかった。
私はいい子ちゃんになろうと必死な子であった。その方が皆に好かれると思い込んでいた。そもそもこの小説を手に取ったのも、好奇心が半分と、もう半分は母とのコミュニケーションを望んでのことである。母の好きな本を通じていい子だと思われたかったのである。だからアニメ版の悪癖を直すストーリーはとても好きだった。どんどん完璧に立派になっていく王女(アニメではシルバー王妃はシルバー王女となっていた)を見て自分もできる限り親や周りから渋い顔をされる行為を改めていった。ところが、新十二か月の旅では悪い癖が全部なくなってしまったシルバー王妃はつまらないということで国民からの人気が落ちてしまう。悪い癖を直させた王様も完璧になったシルバー王妃に苦言を呈する。全くもって理解できなかった。努力を否定された王妃が不憫でならなかった。ついでに私の努力も否定されたような気がしてショックであった。
しかし、読み進めていくうちに、のびやかになっていく王妃を見て「悪い」癖とはなんなのだろうか、と思うようになった。他者にとって都合よく振る舞うことが美で善なのだろうか。なんでもできて、誰にでも優しい人が一番に人気者で愛されているかというと、そうでもないような気がした。都合が良い人はいつだって頭の片隅に追いやられ、誰かを夢中にさせているのは一癖も二癖もある人ではないか。誰にも嫌われることの無い人は誰にも好かれもしないのが真理なのかもしれない。誰しも何か欠けたり出ているところがあって、その人それぞれの凹凸がきっと人を惹きつけるのだろう。だから無理に平らにしなくても良いのだ。
王妃のお伴が野菜だった意味も今は何となく分かる。野菜の精霊たちにはかつての王妃と似たような癖が付けられていたが、野菜という設定そのものが人によっては大好きだし、大嫌いだし、という味や食感の癖がある。だからといって、万人が好きになる野菜にとって代わられるべきか、というとそうではない。ちなみに私はタマネギが恐らく一生この先も食べられないくらい苦手だが、これを愛する人もいる。だからタマネギはタマネギのままでいいのだ。他の食材でも同じことが言えるが、野菜は多くの子供たちにとっての好き嫌いの第一関門であり、児童文学として野菜が的確この上ない設定だったのではないか、と一人で納得している。
必死だった頃にはショックなお話ではあったが、いろんな経験を経て、物語を読み返すととても温かい許しの物語である。母譲りの完璧主義に苦しむ日はこの物語を思い出す。私が私の美や善を追い求めるのは自由であるが、タマネギがタマネギのままでいいように、私が私自身のままでいいことを思い出して、自分を許す時ができた。生まれながらに持った私の凹凸は私だけのものであり、他者にとってそれが嫌われるものでも構わないのだ。きっと誰かにとっては美しい癖かもしれないから。だから私は今日も文字を追うのが下手だし、タマネギの食感と味で眉間に皺を寄せる。