2018年11月13日 08時01分

彼はなぜ「アウラ」を言うのか

藤島タカシ

ヴァルター ベンヤミン 「複製技術時代の芸術」

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 もし「ヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』を一言でまとめなさい」という課題を課されなら、あなたはどうするか?

恐らく、「アウラ」は凋落した、と即答する人は多いだろう。

 しかし、ベンヤミンがこの著作で伝えたかったのは、果たしてそれだけなのだろうか。

 たしかにこの作品では、「アウラ」という概念をよく扱っているが、ベンヤミンはしかし、「アウラ」がどうなるのかが、さほど気になる訳ではなかった。

 そもそも「アウラ」とは何か。「空間と時間から織りなされた不思議な織物である」とベンヤミンは答えている。

 しかしこの返答はあまりにもあいまいすぎて、まるで戯言のようだった。ハードコアなベンヤミン思想全般に触れない限りでは、それを理解するのが恐らく無理だろう。

 もちろん、いくら午後の山々を眺めていても、普通はピンとこないだろう。

 「Denn es ist die ‘reine Sprache’(だって、「純粋言語」だもん)」と、仮にベンヤミン本人が生きていてもこう誤魔化しそうだ。

 そんな「でも、課題が……」と悩むあなたにも分かる言葉で説明すればどうなるか、と考えながら、僕は敢えて極めて浅はかに、ベンヤミンの「アウラ」を自然言語(日本語)に翻訳しよう。

 ベンヤミン思想をある程度知っている人なら、彼のユダヤ神秘主義に帰結している方もいるが、実際「アウラ」はさほど神秘なものではなく、そもそもベンヤミンが発明した語彙でもない。

 ベンヤミンが使っているドイツ語「アウラ」は、英語の「オーラ」とは大体近い意味を持っている。「オーラ」といえば、本当は見えないし触れないものだったが、それにしてもわれわれ人間は、「オーラ」を確実に感じている証拠が残っている。

 例えば、仏教やキリスト教の絵画や彫刻では、ブッダや神や聖人の後頭部にしばしばピザ生地のような円盤がついているし、天使の頭上にもだいたいドーナツのような輪がついている。こうした表現はまた、1960~70年代中国の偉人絵画や、2000年代以降アメリカのPCゲームにも現れている。そう、これは全部われわれ人間が感じ取った「オーラ(アウラ)」の表現だ。

そして今日われわれも日々「アウラ」を感じている。

 例えば、ある日の午後の山々、いや、富士山を眺めよう。あの平原にポツンと盛り上がっているでかいやつが太陽の光を反射し、われわれの視神経に焼き付けた瞬間、あなたは何を感じているのか。そう、この瞬間あなたを感動させたのは、あなたに「美しい」や「神聖だ」と思わせたのは、まさにベンヤミンが言う「アウラ」だ。

 そしてあなたに感動させたこの「アウラ」は、ベンヤミン的に言えば、少なくとも2つの要素によって構成されている:

第一に、あるものから発している「アウラ」は、視覚的情報(イメージ)であり、故に我々は「アウラ」をそのまま触ったり舐めたりすることができない。例えば、河口湖の長崎で富士山を眺めていると、我々の目の前に映っているあのシルエットから発している「アウラ」は、たとえどんなに近く感じていても、それを触ることは当然不可能である。そして五合目に行っても、あなたが触れるのは石ころや木々にすぎず、あのシルエットはむしろ見えなくなっている。すなわち、残念ながら、我々は「アウラ」を一定の距離から目で見つめるしかない。

第二に、あるものが発している「アウラ」は、決してどこにも見えるものではなく、「いま・ここ」にしか見えないものである。いま中国人がいくら「パクリ上手」と言われても、あの数万年の火山活動でできた平原と、標高3776.24メートルの富士山を同じスケールでコピーすることがまだできない。だから中国人はわざわざ日本に来て、「いま・ここ」にある富士山の「アウラ」を吟味するしかない。こうした「いま・ここにしかないこと」を、ベンヤミンは「真正性」とも呼んでいる。

 ベンヤミンにとって、あるものはまさにこうした「視覚性」と「真正性」を同時に有してはじめて「アウラ」を放ち、そしてこうした「アウラ」から美や神聖さや崇高性を感じ取った我々先祖も、まさにこうした「視覚性」と「真正性」を利用して、洞窟の中に作画しはじめ、礼拝の対象としての芸術作品を作り始めたのである。そのため芸術作品はむかし、「礼拝価値」が常に伴っていた。

 しかし、こうした芸術作品と「礼拝価値」との共生は、なぜ撮影や映画など複製技術の発展によって解体したのか。なるほど撮影や映画以前の複製技術は極めて少なく、あくまでもモジュール製の貨幣や印刷される書物にすぎず、そしてどちらも「礼拝価値」がある芸術とは見なされていなかった。それに対して、絵画や彫刻など芸術の作品は、いくらアーティスト本人が反復しても、そしていくら他人がパクっても、完全複製をすることはできない。そのため芸術作品の原作は「真正性」をもって礼拝され続けていた。ところが写真の実用化がこの「アウラ」を構築する「真正性」を危ういた。実際、初期写真「ダゲレオタイプ」は物理的な制限(一回につき一枚しか制作できない)のため、まだ「真正性」を保っていたが、後に現れた湿版写真は一枚のネガだけで同じ画像を何枚も作れるようになり、しかも写真が複製できた画像は、人間の目で確かめられる程度よりも、被写体の細部を繊細に映すことができる。その結果、写真文化が浸透した19世紀になると、人々はもはやたった一点の芸術原作の「真正性」を求めず、ひたすらその視覚的情報(イメージ)を求めるようになってしまった。そして後に写真術に基づいて発明された映画では、複製されたイメージが秒間10枚以上のスピードで視聴者の目に殺到し、そのため人間はもはやイメージを一枚一枚吟味する暇がなくなり、ただ秒間十数枚で送っている写真を「気散じ」に見流ししかできなくなっている。すなわちベンヤミンが言う「アウラ」の凋落は、芸術作品の「アウラ」がなくなったわけではなく、写真や映画が培えた感性によって、「アウラ」を放つ芸術作品の「視覚性」と「真正性」が当時の人々にとってどうでもよくなってしまったのだ。

 しかし、ベンヤミンはただ「大衆が堕落した」とか「芸術作品が尊重されなくなった」とかを訴えているのか。いやそうでもない。ベンヤミンはただ、「アウラ」が凋落することで、かつて呪術的・宗教的に扱われていた芸術作品が旧来の「礼拝価値」から解放され、展示のためのものとなっていると淡々と述べているのに過ぎない。彼はむしろ、この芸術のあり方の変遷がいかに政治・権力に利用されているかを喝破しようとしていたのだ。

 周知のとおり、当時の世界を支配していた3つのイデオロギー、つまり資本主義と共産主義と国家社会主義(ファシズム)は、いずれも自身の正当性を主張していた。そして三者はいずれも、この芸術作品のあり方の変遷を見逃さなかった。資本主義は凋落した「アウラ」の代わりとして、映画俳優の身体から「フィルム・スター」のイメージを疎外させることで、現実世界から乖離した「夢」を大量生産し、プロレタリアートの革命を防いだ。共産主義は「アウラ」の凋落を構わず、プロレタリアートの人民像を展示することで革命のためのプロパガンダをし、展示品となった芸術を政治のために使っていた。国家社会主義は「アウラ」が凋落していることを知りながら、映画をもって虚偽なる「崇拝価値」を捏造し、政治を粉飾していた。この1936年に発表されたベンヤミンの著作では、さらなる議論がなされなかったが、その勃発した第二次世界大戦と冷戦を考えると、ベンヤミンが拘っていたのはむしろ政治と権力のほうであったのだろう。

 そう、「アウラ」はどうでもいい。重要なのは、我々愚かな人間は、こう踊らされたのだ。


この書評に対するリレー書評:




2018年12月04日 06時18分

1/8秒のアウラを呼吸する

JoJo

岡田斗司夫「オタク学入門」

『彼はなぜ「アウラ」を言うのか』を拝読して、仰々しいアウラの概念をそこまで明解に説明できてなるほどと論理的な理解が働いたと同時に、私・・・

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