そもそも本とかできれば読みたくないっていう問題があり、2018年現在においては大方の読書体験よりもYouTubeでMinecraft実況動画を見たりしていたほうが刺激的で愉快であるわけで、しかしながら四角い人間がレンガで家を作ったりゾンビから逃げ回ったりしているところばかり眺めていてはなんかこう、良くないのではないか? 良からぬことが私の身に待ち受けているのではないか? というさもしい気持ちから仰々しいハードカバーの表紙など開いてしまったりするのだが、かといって書店の店頭に自己啓発書のような、読書の結果として何かを期待させるような本ばかり並んでいたりするのを見るとそれはそれでなにか憂鬱な気持ちになったりするわけで、このように私は読者として本なるものに対して常に何らかのポーズを取らされてしまっており、そのことにすっかり疲れきってYouTubeを眺めている。
1973年に初版が刊行された前田愛『近代読者の成立』は、近世近代日本文学テクストの斬新な読解で知られた国文学者による読者論集である。「読者論」とは何か。文字通り読者について考えることであり、その地平において対象とされるのは漱石や鴎外といった日本文学の作家たちよりもむしろ、私のような「読者」である。
じっと座って連綿と連なる文字の羅列を目で追っていく読書というのは、少なくとも私にとってはある種の苦痛を伴うものなのだが、同書に採録されている「音読から黙読へ」はそのような「読書」が明治期の近代化の過程において「成立」したものに他ならないことを、同時代のテクストの巧みな読解によって示してくれる。前田は、明治初年における人々の読書体験を、主に家庭内で識字能力を持つものが持たぬものに対して本を読み聞かせる「朗読」と、漢籍の素読のマナーから引き継がれた青年たちによる「朗誦」という二つの「音読」体験に分類し、それらが「黙読」を暗黙のルールとする近代的な読書体験と、それに適した文体の成立へと与えた影響を論じていく。私を苦しめる近代的な読書のプレ・ヒストリーには、「声に出してみんなで読む」という共同的な読書体験が横たわっているのだ。
他にも明治初期にまさに「啓発書」として大ベストセラーとなった『西国立志編』『学問のすゝめ』といった書籍が混乱の時代の青年たちにどう読まれたかを解き明かす「明治立身出世主義の系譜」や、婦人雑誌・新聞といったマス・メディア、大衆文学のプロットやモチーフ、そして作家と読者の生活の様相を縦横に行き来して大正期の女性を取り巻く時代精神を探る「大正後期通俗小説の展開」など、「本」というトポスから成立しつつある近代社会に暮らす人々の陰影を描き出していく前田の筆致は、40年以上経ったいま読んでも十分に刺激的だ。
刊行当時に書かれた本書のあとがきにおいて前田は、ジョージ・スタイナーの文章を引きながら、孤独な密室でページを手繰る近代的読書体験が優位性を失いつつあることに触れている。そのビジョンは無論現実化しているわけだが、しかし今でも私は、一人の読者として何をどう読むか、にそれなりに苦心させられている。読者とは何者か、という問いに迫ろうとする『近代読者の成立』は、誰かがMinecraftをプレイしているのを孤独に眺めるくらい面白い。
(検索で出なかったので書影が違っています)
前田愛『近代読者の成立』2001, 岩波書店, 岩波現代文庫