2018年11月11日 04時35分

旅と自分をダウンロードする本

atsutomo

ふかわりょう 「風とマシュマロの国」

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 地理のテストで、月ごとの雨量と気温を示したグラフから都市名を答えさせられた経験があると思う。雨温図というらしい。全体的に寒いがそれほど特徴のない形を描くグラフの方は忘れてしまっても、「レイキャヴィク」というインパクトのある地名は覚えているのではないだろうか。『風とマシュマロの国』とは、このレイキャヴィクを首都にもつ北緯六六度の島国、アイスランドのことだ。

 一年に約一週間の滞在、五年連続のアイスランド旅行をエッセイにまとめた本書の著者は「芸人界のTOKYO MX」(と言われているかは知らないが)、ふかわりょう。ある日突然気になって抑えられなくなった衝動を五回の旅行でも冷めさせないほどのアイスランドの魅力が、ときに分析的に、ときにメルヘンチックな妄想を交えて綴られる。そう、メルヘンチックなのだ。

「これは!」

 あのときかじりつきたかった氷河のアイスが、大きな皿の上にそびえそびえたっています。思った通りのソーダの味。たくさんほおばっているうちに、すっかり体が冷えてきました。

「それはできません」

「寒いからちょっとだけ、ね、いいでしょ、風邪ひいちゃうから!」

 そういって暖房のスイッチを勝手に入れると、あたたかい空気が流れてきました。

「あれ? どしたの?」

 踊り子たちはいなくなり、みるみるうちに周囲の氷河が融け始めると、目の前のプリンセスも融けていきました。

「プリンセス!!」

 辺りは、マシュマロたちの散らばる牧草地帯が広がっていました。

 紀行文というのはこんにちある種の困難を抱えている。というのも、どの景色も読者は「もう知っている」のだ。それは旅人も例外ではなく、ふかわも衝動的に旅立つまでの間に、旅行雑誌やインターネットで観光名所について綿密なリサーチを重ねている。つまりこんにちの旅や紀行文は、いかに既知のものを超える印象を感じとり、表現するかにかかっている。ふかわの場合、「表現」のレベルでは、妄想的なエピソードの挿入や独特な比喩、フラッシュバック/フラッシュフォワードといった語りの技法によって「物語」化する。素朴に見える文章だが、実は結構テクニカルでもある。では、ふかわ自身は旅から何を感じ取っているのだろうか。

 ふかわは旅に出る理由を二つ挙げている。一つは先述の問題とも関わっていて、メディアを通して知ったものでも「体全体で感じないと本当の意味で「知る」ことはできないと思う」から。そしてもう一つは「クリーンアップ」のため。全てがスケジュール通りにはいかない一人旅の中で必然的に生じる時間的・精神的「退屈」が、ハードディスクをクリーンアップするように脳の中の情報を整理整頓して、自分が何をすべきかを発見するには必要なのだ、と。「クリーンアップ」された脳に新鮮な「体感」が加わることで新しいアイデアも生まれてくる。「体感」と「クリーンアップ」はアナログとデジタルの関係のようにも思えるが、ふかわにとって両者は決して対立するのではなく、有機的に結びついている(自然と技術の共同遊戯(Zusammenspiel)!)。

 地球が生きていることを感じさせるプレート境界や雄大な滝、温泉、虹、オーロラ。雨温図では伝わらない移ろいやすい天気や「のどが渇かない」空気。母なる自然に触れたふかわは、「自然の力を信じ、地球が生きていること、そして僕たちが自然から生まれた子供たちであることを意識する」ことの重要性をもって一年目の旅を締めくくる。が、それは単に技術を一切捨て去ることではない。実際、そのすぐ後のページから始まる二年目の旅は、「旅のBGMとして作成したコンピレーションCDを成田行きの車内に忘れてきてしまったので、手持ちのPCから焼き直すべくCD-Rを求めてトランジットで降り立ったコペンハーゲンを駆け回る」、というエピソードで幕を開ける。氷の世界で暖房を点けてしまう「ちょっとだけ、ね」を、責めるのではなく(笑いを交えて)反省させる。それくらいのちょうど良さで事に当たらないと、人間は自然を大事にするためだけに存在する機械になってしまうだろう。自然だけでなく旅先で出会う人々や「マシュマロ」との関係も含めて、他者との間に築かれる適度なdistance=「間(ま)」こそ、本書の――そしてもしかしたら芸人ふかわりょうの笑いの――キーワードだ。

 ところで、芸人でありながらミュージシャンでもあるふかわ=ROCKETMANは旅の間、ほとんどずっと音楽を聴いている。ときには車窓を流れる風景がミュージッククリップに例えられるくらい、音楽の占める比重は大きい。それは音に紐づけることで「体感」を記録/再生するという重要な役割を担っている(「こうやって音楽を聴いているだけで、夜空さえもダウンロードしてしまう」)のだが、では「本」というメディアはどうだろう。ある紀行文を読んでいる私たちは、確かに情報以上の何かを受け取っているのだが、それは著者が得た体感とそのままイコールではない。小説でもエッセイでも、文字による伝達には必ず「空白」がある。これを埋めるのが読者である我々自身の想像や、日々の出来事との結びつけだ(「解釈」のレベルでは単純にそうともいかないが)。ふかわにとっての音楽のように、本も様々な感覚や想像を刷り込める記録装置として機能するのだ。本書の白い装幀は、それを誘っているようでもある。

 ふかわの表現・私の想像・私の身の回りが一緒になって自分だけの『風とマシュマロの国』ができあがり、注ぎ足される秘伝のタレのように読み返すたび記録がアップデートされていく。そこに自分自身の「体感」も記録したくなって、人は紀行文を携えての旅行に心惹かれるのだろう。免許とらないとアイスランド旅行は厳しそうだけど……

#アイスランド

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#エッセイ

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#二千字以上