ここのところ、Aマッソというお笑いコンビにお熱である。夏に単独ライブを観に行ったら、笑いとカオスがないまぜになったまぶしいステージを見せつけられ、一瞬で持っていかれた。こんなにおもしろいことを思いつくなんて、なんてかっこいいんだろうと感動して、気づいたら涙を流していた。ライブ後、いったいどんな思考回路でネタが生まれているのかが気になり、ツッコミ(一応)の加納愛子さんについて調べてみた。そのときに出会ったのが、岸本佐知子の『ねにもつタイプ』だった。
加納さんは、webちくまのリレー連載「昨日なに読んだ?」のなかで『ねにもつタイプ』を紹介し、「おった! まだ忍者ごっこしてるやつおった!」とレビューを書いていた。幼いころは夢中だったけれど、歳を重ねてやらなくなってしまった、いや、できなくなってしまったこと。そういう表象としての「忍者ごっこ」。ほんとうは誰もが、いつまでも忍者ごっこをしていたいと思っている。でも、できない。大人なんだから、一人前なんだから、できない。芸人である加納さんは、「ニンニン」し続けるむずかしさを、誰よりもわかっている。大人はふつう、ニンニンしない。ニンニンするのは子どもだけ。だけれど時たま、大人になっても人差し指を握っている人がいる。ここでいうところの、加納さんであり、岸本佐知子である。
気になる芸人に、こんなにぐっとくる書評を書かれたら、読まずにはいられない。第二十三回講談社エッセイ賞を受賞し、一応エッセイ集とされているこの著作には、約五十のエッセイがおさめられている。「リスボンの路面電車」というタイトルのエッセイから、一部を引用してみる。「ある日とつぜん都が穴を設置すると発表した。何のためなのか、どういう穴なのか、何の説明もないまま、新宿丸井ヤング館の前の道路に、一夜のうちに直径三十メートルほどの大きな穴が出現した。(中略)穴は何年経ってもそこにあり、私たちはいつしかそのことに慣れた。穴は危険で恐ろしかったが、同時に心休まる存在でもあった。悲しいとき嬉しいとき、私たちは穴の前に来て佇んだ。何事も穴に事寄せて考える習慣が身についた。「穴に落ちた気で頑張れば」とか「穴に誓って」などという慣用句が普通になった。穴の前でプロポーズしたり、死んだ人を穴葬にしたりするのが流行った。穴はすっかり私たちの生活の一部になった」。
なにを言ってんだか、と言いたくなるが、そう言ってしまってはおもしろくない。これこそが「ニンニン」だと加納さんは言っていたし、わたしもそう思う。至極まっとうな顔をして、「穴の前でプロポーズしたり、死んだ人を穴葬したりするのが流行った」と書く。かろうじて思い出したきのうの夢、みたいな、人生で何度目かもわからないデジャヴ、みたいな、日々のなかからこぼれ落ちてしまったものを、ぜんぶ掬ってぜんぶ書き留める。ふざけてなんかない。こちとら大まじめだ。加納さんも、岸本佐知子も、全力でわたしたちに伝えようとしてくれているのだ。大人になってもニンニンしていい。人差し指を握って、すり足で高速移動をして、見えない敵に手裏剣を投げつけて遊んでもいい。忍者ごっこをやめるな、そこにほんとうのおもしろさがある、と。