あ、いま、言葉になった。そう思う瞬間がある。たいてい本を読んでいるときにやってくるのだが、感情や感覚、現象、とにかく名前のついていなかったものに活字が与えられる、あの興奮といったら。江國香織を読んで知った、どうしようもなく誰かが好きで仕方がない気持ち。川上未映子を読んで知った、どうしようもなく自分が惨めで情けなくて仕方がない気持ち。思い出すだけでどきどきしてしまう。そんな「名もなきものに名を与える」行為。思えば、もっともなされるのは、味を表現するときかもしれない。味という舌の上でしかわかり得ないなにかを、言葉を使って必死に表現する。ソムリエたちのあの必死さを見てほしい。マスカットのような、野いちごのような、ならまだわかる。それがなんだ、鉛筆の芯のような、濡れた毛糸のような、火打石のような、って。必死も必死だ。
リンボウ先生こと林望の名著『イギリスはおいしい』を読んだのは、高校二年生のときだった。イギリスに一週間程度の中途半端なホームステイをする機会があり、出発前にぜったい読めと父から託された。当時のわたしはイギリス料理がどんなものかをよくわかっておらず、「おいしい」と書かれたタイトルそのままに、期待を込めて読み始めた。数回ページを繰って、違和感に気付いた。ここで描かれているのは、味は味でも、「まずい」ほうの味だったのだ。
イギリス料理=まずい。世界の常識である。しかしイギリス料理がどのようにまずいのかというのは、食べた人間にしかわからない。リンボウ先生はそのまずさを、懇切丁寧にわたしたちに伝えてくれる。たとえば、リークという長葱の一種。どんな野菜も長時間茹でてしまうイギリス人は、リークもとりあえず二十分ほど(長い!)茹でる。しかも、切らずに茹でる。茹だりに茹だった「変にフニャッとしたズルズルの、しかし不愉快に筋ばった」リークは、申し訳程度のホワイトソースによってグラタンに仕上げられるのだが、これがじつにまずい。「いくら煮ても筋は柔らかくならない上に、全体がぐちゃぐちゃしているので、ナイフではうまく切ることが出来ない。そこで、繊維の長いまま口に放り込むと、いつまでたっても噛み切ることが出来ないで、閉口しながらその味の無い筋の束を、ぐいっと呑み下す羽目になる。ああ!」さすがのリンボウ先生もご乱心のまずさである。
しかしそれでもリンボウ先生がイギリスは「おいしい」と言っているのはなぜなのだろうか。それはやはり、食事をするときにもっとも重要な、誰とどのように食べるか、というところに集約される。『イギリスはおいしい』で描かれているのは、まずいイギリス料理の話ではない。すばらしいイギリス人の仲間たちと食べるまずいイギリス料理の話なのだ。ある日、一般的なイギリスの家庭料理を学ぶべく、知り合いに教えを請うたリンボウ先生。喜んでキッチンに招き入れてくれた彼女だが、そこで繰り広げられたのは、やはり理解しがたい料理ばかりであった。いつものように、ジャガイモや人参は長時間茹でる。メインディッシュのベーコンは、塊のままアルミホイルに包んでオーブンで一時間。火加減やタイミングを無視して作ったダマダマホワイトソースは、仕上げにミキサーにかけて結果オーライ。簡単で、質素で、どうしてもまずい料理。けれどイギリス人は、食事をするにあたって一番重要なことを、ぜったいに守っている。「イギリス人は食事そのものには要するに大して意を用いないけれど、食卓の雰囲気を作ることにかけては、決して他国人に劣ることはない。食卓の、静かな、落ち着いた空気の中で、友人や家族がくつろいで談話をかわす、というそのことにじつは一番大きな目的があるからである。」「たしかに、ホワイトソースは粉っぽかったし、ローストベーコンは塩辛いばかりで、茹ですぎた野菜には特に掬すべき味もなかったが、それでもなお、イギリスの食卓には、私たちの国ではとうの昔に失われてしまった、なにか美しい「あじわい」が残っているのであった。」いくら料理がまずくても、そのとき、その場所で、仲間といっしょに食べるから、おいしい。そんなまずくておいしい料理の味が、この世界にはあるのだ。