2020年05月08日 10時56分

明るい世界を求めてしまう

土谷優衣

ジョージ・オーウェル/新庄哲夫訳 「一九八四年」

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小学生の頃に「アンネの日記」を読んだことをきっかけとして、第二次世界大戦時の全体主義というものに興味を持ち始めた。それに関連する本や映画などに触れて自分なりにたどり着いた一つの考えとして、全体主義や独裁政治は民衆の思考を停止させることで成り立つというものがある。ここでいう思考停止とは考えることを放棄し、ある独裁的なリーダーの熱狂的な信者となること。そのために必要なことは魅力的な政策、それの実現を第一目標として民衆を団結させる力だと考えてきた。しかしこの本で描かれる世界は今までに経験されてきた全体主義の遥か上をいくもので、その世界を作り出すための方法がまるで違うように感じた。1984年の世界が作り出したものは矛盾を信じるための思考を植え付けること、それは私が考えていた思考停止とは違い、より一層の教育を必要とし、ただ盲目的なのではなく自分の目でしっかりと見据えた上で、それが揺るぎない真実であり絶対的なものであると考える思考を潜在的な要素として埋め込むものであった。そのような世界を目の当たりにした私は怖い、を通り越してすごいと思ってしまった。それと同時に私たちが今体感している世界は自分がそれを現実であり真実であると信じているから存在し成立しているように感じられてきた。この世界はなんて脆いのかとすら感じた。しかしこの脆さが変形可能性を生み出し、世界を(大多数の人間にとって)良い方向に変えていく力をも内包しているのではないかとも思う。正直そのような活路を見出さなければ頭がおかしくなりそうだった。おそらく主人公のウィンストンは1984年の世界で消されそうとされている過去の記憶を保持するための言葉や語彙を数多く備えた人物だったのではないかと思う。ただぼんやりと考えていることは、大抵は記憶の奥底に沈み、泡となり消えていってしまう。その考えを言葉にすることで密度を高くし、ぎゅっと固め、消えないように心に隠し持つことが記憶を保持する一つの方法。だからこの物語が、ウィストンが日記を始めることから始まったのではないか。自由に言葉を発することができない監視社会において書くことは最大限の抵抗であり希望だ。