2019年05月09日 03時13分

ことばの残像

高野瑞季

筒井康隆 「残像に口紅を」

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メタフィクションが好きだ。専門的なことが語れるほどその分野に詳しいわけではないけれど、「あなたが読んでいるのは小説という、誰かの創作物だということを忘れていませんね」と小説の側からこちらを伺ってくるような、自分の認識にぬるりと入り込むような不気味さが妙に癖になって、つい好んでしまう。

『残像に口紅を』は、自分たちが小説の登場人物であると明確に意識している作家の男の一人称視点によって語られる作品である。世界から「音」が一つずつ、たとえば「あ」の音が消えれば「あなた」や「朝」という単語が使えなくなるように、音を消していく中で作者の分身である作家の男が残された音を使って如何にして思考し、周囲の世界を描写し、行動するか。この作品で描かれていることは、言ってしまえばそれだけである。

物語においてはいくつかの事件は発生するが、それは時に脈絡がなく、緻密な伏線や壮大なテーマといったものは現れてこない。端的に言ってしまえば「ストーリー」に強い魅力がある作品ではないのだ。

しかし、ある意味ではそれ故にこの作品は魔的な魅力を持っていると言えるだろう。作者の持つ圧倒的な言語能力は、この作品が大がかりな「実験」であり、「曲芸」であることを隠しもしないメタな状況でこそ際立って見えるからである。

主人公はこの世界が自分の認識によって成り立っていることを知っている。自分が描写しなければそれは都合よく存在することになるか、都合よく存在しないことになるのだ。

つまり、「心臓」という言葉を構成する「し」「ん」「ぞ」「う」の音のどれかが消えていれば「心臓」という言葉を使うことができなくなるので、その時点で心臓という臓器は存在せず、人間は生きていけないことになる。しかしこの小説において定められたルールでは、「心臓がときめいた」などと描写する必要が生じない限り、いちいち心臓の有無を気にしなくてよいので、人間も消えなくてよい、ということになるのだ。

これによって何が起こるか。あるものを描写するとき、単に「建物」と書けても、材質が「コンクリート」であることを描写しようとすると建物が消えてしまう、といったことが起こるようになる。ものの概要を表現できても、そのものに焦点を当てて詳しく描写しようとすれば、目を凝らして、文を使ってその解像度を上げようとすれば、かえってその対象そのものが消えてしまうという問題が発生するようになるのだ。物事の表層をなぞって、余計なものが消えてしまわないように文を動かしてゆくのは、薄氷を踏むような危うさがある。描写の匙加減ひとつで世界からものが減っていく、そのことに読者が気付いたときに生まれるその存在の奇妙な脆さは、この小説以外では味わえない感覚だ。

それだけではない。

単語で表現しきれなくなったものが消滅したとき、主人公は過剰に悲しむことはない。主人公は最後の音がなくなるまでこの小説を続けるという目的意識を絶えず持っているからだ。

しかし、人は自分の今まで出来ていたことが出来なくなることに悲しみを覚える。怪我で走れなくなったり、加齢で油ものが食べられなくなったとき、それを悲しいと思うように、この小説で「音」が失われることで主人湖にできる行為も失われていくことを、なぜか読み進めていくうち、それを読む我々の方がやがては物悲しく思うようになるのだ。

作者の単語を操る力はすさまじく、中盤以降、半数以上の「音」が消えてもまるで意識させないような自然な言葉運びが行われている。その巧みさは文中で主人公本人が自分の文の力を誇って見せるほどで、その技巧にはこちらも舌を巻くことになる。

しかしそれでも、文末に使う「音」が消えれば文を体言止めで終わらせざるを得なくなったり、徐々にその文や思考の自由度は失われていく。

それを作者や主人公は、ことさらに悲しいこととして描写してはいない。

しかしそれを、ただ器用な曲芸だと単に笑っていられなくなったら、失われた、本来使えるはずだった単語の残像に思いを寄せるようになったら、それはこの小説の魔力に、すっかり囚われてしまったのだということになるだろう。