2019年01月15日 02時36分

誰にでもある「あの頃」

guro

九把刀、阿井幸作、泉京鹿 「あの頃、君を追いかけた」

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「事実は小説よりも奇なり」という言葉がある。“世の中の実際の出来事は、虚構である小説よりもかえって不思議である”という趣旨の言葉であるが、このフレーズを冒頭に引用する書評もはたしていかがなものかとも我ながら感ずる。小説の書評であるにも関わらず、だ。だが、今回私が取り上げる「あの頃、君を追いかけた」という作品を語るにあたって、私が初めに抱いた印象がこのフレーズであったため、こういった書き出しを試みた。

この作品は、台湾の九把刀(ギデンズ・コー)という作家が自らの青春時代を描いた自伝的小説である。彼は、自らの10年間に渡る沈佳儀(シェン・チアイー)という女性に対する行動・想いを、柯景騰(コー・チントン)という主人公に憑依させ、当時の出来事や感情を一切の恥ずかしげもなく描いている。ジャンルとしては青春ラブストーリーに区分けされるのであろう。

日頃、私たちの周囲で起こる出来事は、バケツいっぱいの水に墨汁を一滴垂らしたように私たちの記憶からあっという間に薄くなってしまう。ネガティブな出来事や感情に対して“時間が解決する”と片付けてしまえば聞こえはいいが、それと逆の歓びの気持ちも消失していってしまう。水を足せば、次第に墨汁が含まれていたことさえも判別できないほど薄まってしまうだろう。この作品は、自分の青春を極めて純度の高い状態で描いているという点が非常に刺さった。根拠の無い自信に満ち溢れ、恋愛に人生を捧げている、壮年期の青臭さがここまでひしひしと伝わってくる小説も珍しいように思う。

“やばい。一度沈佳儀に惚れちまったら、これからあと百回は惚れる自信がある。[中略]夜に学校に残って勉強する美少女を守るボディガードでもある。”

読んでいてこちらが恥ずかしくなるような文章である。二十歳をとうに超え、青春と呼ばれる時代に別れを告げつつある私には、少々刺激の強すぎる表現がこれでもかとばかりに並んでいる。だが、どこか憎めず、そして微笑みさえしてしまう、挙句涙腺に訴えかけてくるあたり、柯景騰は私であり、そして青春を過ごした全て世の男性諸君なのだろう。

この物語の中では、6年間恋い焦がれた沈佳儀と結ばれた柯景騰は、ひょんなことから彼女と距離を置き、あっという間にその関係に終止符を打ってしまった。両者の価値観の不一致から起こってしまった別れなのだが、それは関係を続ける上での不正解ではあったものの、柯景騰の中での価値観を貫く上では正解の選択肢を取ったに過ぎなかった。現実世界においても、人生とは、私たちがその場その場で選択を繰り返した結果であり、それがたとえ不正解の選択であったとしても、もはや後戻りなどできない。人生において、正解は一つではなく、人の数だけあり、そしてそれが交わるからこそ、「事実は小説よりも奇なり」なのだろう。