天才という人種がこの世にいることは知っていたが、モーツァルトのような雲の上の存在だと思っていた。まさかこんな自分の近くに天才がいようとは。私が片岡君を知ったのは今から六年前、彼が大学一年生の時。私の科目「精神分析入門」に寄せた彼のレポート(『エヴァンゲリオン』論)があまりに凄かったので、われわれの研究誌『表象メディア研究』に「研究ノート」なる項目をでっち上げて、彼の元レポートを押し込んだのが、出会いの始め。現在、彼は大学院表象メディア論コース・修士課程二年生。こういう天才と出会えたのは、まもなく四十年になろうとする教師生活のなかでも最大の至福だ。もっとも、こういう人は回りが応援しようが、けなそうが、お構いなく自分の人生を切り開いてゆくものだろうけど。案の定、彼は学部生のうちに友人たちと「戸山フロイト研究会」を設立。四年前には『新疾風怒濤精神分析用語事典』を刊行。それが去年、ほぼ修士一年の夏休みまでに書かれたこの本に結びついたというわけ。
さて、そこでこの本だが、難解をもって知られるフランスの精神分析家ジャック・ラカンの入門書だ。ラカン入門書もずいぶんたくさん読んできた。少なくとも日本語で書かれたものはすべて読んだと思うが、これに匹敵しうるような本は全くないと断言できる。たとえば、本書に絶賛の序文を寄せている向井雅明の本『ラカン入門』(ちくま学芸文庫)は丁寧に書かれた良書ではあるが、どう見ても入門書ではない。もともと『ラカン対ラカン』という題名であった本の再版・文庫化にあたって「入門」という間違ったタイトルをつけてしまったのは出版社の商策に過ぎないのだろう。では『疾風怒濤精神分析入門』のどこがそんなに優れているのか。いかにもアニメ絵風の表紙イラストから若者受け狙いの軽い本というイメージを持つ人もいるかもしれないが、確かに若い著者の感性と言葉で書かれた本であって、それは本書が想定する読者層を考えれば、まことに好ましいことだと思う。しかし、本の内容について言えば、どこから見ても全く「お手軽な」書物ではない。それどころか、これまでのあらゆる類書を蹴散らすような充実した内容を誇っている。
こんな本を書くからには、著者はラカンについて完全に理解しているはず、と読者は期待するだろうが、少なくとも中期ラカンまでなら間違いない。一九〇一年に生まれて一九八一年に死んだ(ゆえに生没年は大変覚えやすい)ジャック・ラカンの学者としての生涯は初期(五〇年代まで)、中期(六〇年代)、後期(七〇年代以降)に分けられ、その間にラカンは別人と言えるほどに自分の理論を作り替え、進化していっているのだが、毎年、ラカンの話を講義している私は何度やっても初期ラカン止まりにならざるをえない。入門書で中期ラカンの主要テーマ「現実界」や「享楽」にまで目配りされているというのは、素晴らしいことだが、もちろんそれだけでは優秀な入門書とは言えない。この本を読んで圧倒されるのは、自分が理解している事柄の「出力」の仕方、簡単に言えば、説明や例の挙げ方が驚異的に優れていることだ。本書はかの「鏡像段階」について語り始める前に「想像界・象徴界・現実界」についてまず全部説明してしまうという独創的だが、理に適った構成をとっているのだが、シニフィアンの連接についての説明(65-67頁)、想像界が象徴界によって統御されていることの説明(69-71頁)、最後に「警察に追われている犯罪者が、国境を越えると・・・」という例を挙げて三界の説明をまとめるところ(76-77頁)、いずれも唖然とするばかり。
授業で毎度、説明に困る「鏡像は真実ではない」(80-81頁)というくだりは、本年度から授業時配布プリントに引用させてもらっている。もう一ヶ所、引用させてもらったのは、まず鏡像段階の経験があって、それから幼児は言語の世界に入るのだという、私の毎年の説明が「半分しか正解ではありません」(88頁)と書かれてある箇所。全くごもっともな指摘なので、授業での説明を変えるしかない。ラカン派の分析は分析主体(患者)にどんなことを気づかせるか、の例として挙げられた架空の「ある症例」(93-95頁)に至っては、著者はやがて教育分析を経て、本物の分析家になるのではないかと思わせるほどの圧巻の出来だ(少なくともフランスでは、ラカン派の分析家になるために医師免許は必須とされない)。
最後にあと一つだけ、重要なことに触れておこう。本書は最初から最後まで、精神分析は患者との対話の場に基礎をおいた「臨床の知」であるというスタンスにのっとって書かれている。ラカンはフロイトと違って特定の患者の治療記録である「症例研究」という形の論文を若い頃を除けば、書いていないので、晩年の彼はもう患者を診ていないかのように誤解されたこともあったが、実は最晩年まで治療の場に身を置いていた人であり、彼の精神分析理論も実践の場を踏まえたものなのだ。すでに精神科医であった人がラカンを学んだ後に書いた入門書はこれまでにあったが、目下、ラカン派の分析セッションを受けつつある著者がそこでの体験を織りまぜて書いた本書のような入門書こそ、これまでになかったものだが、むしろこちらが王道ではないかと思われるほどだ(私にはどうしてもその立場に身を置くことができないのだが)。なぜなら、この本を手にとる読者の大半は、現代思想の巨人としてのラカンに興味があるのだろうが、そういった読者だって「心の病」とまで言わなくても、一人で生きてゆくことの不可能な人類という種特有の「生きづらさ」は十分に感じているはず。そういった人の助けにもなる本だということは、「ジャック・ラカン的生き方のススメ」という副題が示す通りだ。
余談ながら、精神分析の研究者である私が全く精神分析セッションを受ける気がない、その必要を感じない理由も本書には明晰に書いてある。それはエディプス・コンプレックスの発明者であったフロイトが、実は「正常」なエディプス的男性ではなかった、ラカンの言う「神経症者」(健常者のこと)ではなかったという解釈に私がなぜ長年、こだわり続けてきたか、その理由を考えれば、当然なのだけれど。