私が技術改革の進んだ未来の世界を想像する時、身体にチップが埋め込まれていてどこかの組織に管理されている人間、そのチップで意思伝達までできるようになり言葉を必要としなくなる…このような世界を思い描く。便利さを追い求めた結果のディストピア。そんな未来での物語を読みたくてネットで検索していたらこの本を見つけた。短編集でどれも読み応えがあるのだが、中でも私の想像した未来世界が描かれていたのが「地には豊穣」である。
ITPという、脳内をスキャンしデータにして他人の脳に移行することで元の経験を言葉を介さず伝達する技術をめぐる物語で、「技術/文化」の対立構造が読み取ることができる。登場人物のケンゾーは世の中が便利になるなら文化が犠牲になっても構わない技術側、ジャックは文化の差は維持すべきとする文化側である。ITPは英語を母語とする人を基準として作られていて、英語圏以外の人が使うには「調整接尾辞」が必要であるため、既存の文化が平均化されてしまうのだ。日本人でありながらアメリカで研究しているケンゾーは、自分の元となる文化がどこなのかわからず孤独感を感じていた。だから、文化にとらわれない世界を作れるITPの研究に人一倍熱心に取り組んでいたのだろう。「ひとつの文化が淘汰されても、結局は別の文化に自分を合わせる」「これからの宇宙時代には、ごみごみした民族や文化の壁などとっぱらってしまえばよい」そんなケンゾーの考えを変えるのが、日本人被験者兼ジャックの書道の先生である音一郎氏で、彼と関わることでケンゾーの考えは変わる。自分の拠り所を見つけるため「特徴を強調した日本人」のITPを不正利用し日本人らしい日本人になろうとするのだ。
全体を通して、難しい技術描写は多少あるが、主にケンゾー自身の中の葛藤がよく描かれていて面白かった。私がこの物語の最も評価した点は、「技術<文化」(逆も然り)という式を肯定していない点だ。あえて答えを出さないことで読者にこの問いを投げかけていると思う。しかし、文化は簡単には潰れることはないということは描かれている。文化ごとにITPを作れば永久に残るということだ。確かにITP技術が発達すれば、それを自分に埋め込むだけでどんな人間にもなれるし、理想の自分になるということが叶えられる。ここだけ考えればユートピアかもしれない。しかし、本当にそうだろうか?私は、文化とは人の行動に伴って変化し、また新しく生まれていくものだと考えているから、ITP技術が伝達する文化は本来の意味の「文化」を失い、ただ要素を抽出して移植するためのサンプルのように思える。そこに進化の余地はあるのだろうか?画一化されてしまうのではないだろうか?このような疑問を抱いたままこの話を読み終えた。ユートピアの面、ディストピアの面が脳内で行ったり来たりして、この物語がどちらの世界であるか未だ断言することはできない。しかし、このようにぐるぐると考えさせるものがデザイン・フィクションとして優れている物語なのではないかと考えている。