2018年12月20日 07時13分

私とはなにか

Karin Yoshida

長谷敏司 「Mai hyumaniti」

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 この課題を聞いたときにどの本を題材にしようか悩んでいたら、以前から読もう読もうと思っていた長谷敏司の『My Humanity』を思い出した。SFはもともと好きなのだが、一時期SF小説の長編を読む体力がなかった時にSFの短編作品で面白いものはないかと色々検索していたら見つけた作品だった。せっかく見つけたのに結局読まずじまいだったので、この機会にしっかり読んでみた。今回は『My Humanity』の中の「地には豊穣」を取り上げたい。

 この作品は、治安が悪化し続けていた地球が月開発が軌道に乗ったことで、悲惨だった状況からは一応は抜け出すことができた2089年が舞台だ。物語のキーになるのは疑似神経制御言語ITPという「専門技術者の経験そのものを、直接使用者の脳に再現する」ことができる言語である。例えばこのITPを使えば農業プラント技術者の経験を素人の脳内に書き込んで、熟練の技術者並みに作業をやらせることができる。また、ITPは経験だけではなく文化の書き換えも可能にする。日本語を話すことができない外国人に日本人の経験を挿入することで日本語を話すことを可能にし、作中でも出てくるようにそれまでおいしいと思っていなかった寿司をおいしいと感じるようになる。

 ITPはもともと英語圏の人間を規準に開発されたため、主人公であるケンゾーは日本人の脳に合わせるための「日本文化調節接尾辞(アジャスタ)」を開発するチームで研究をしている。この作品ではITPの否定派と肯定派の対立や、ITPは使用者を英語圏の文化に洗脳しているのではないか、このままでは文化は押しつぶされるのではないか、ITPの基準値を一体どうやって決めるのかという研究者たちの葛藤を読み取ることができる。

 そんな中で描かれている主人公の主観描写の変化が秀逸なのだ。主人公のケンゾーは日本に生まれアメリカで仕事をしているが日本人的でもアメリカ人的でもない。あることをきっかけにケンゾーは自分には土台となる文化がないのだということを強く意識することになる。「母文化が吸収されても便利になったとよろこぶだけ」と考えていたケンゾーが自分の繋がりの希薄さに恐怖を感じるのだ。そしてその恐怖心を取り除くためにケンゾーは自らに「特徴を強調した日本人」の経験伝達を無断でインストールしてしまう。 

 「物事を日本語以外で考えることができなくなっている」と感じた謙三にはぞっとした。いままでの考えとは正反対のことを考えたり、行動したりするようになるのだ。一人の人間の文化や考え方が書き換えられていく光景を私たちは謙三の主観描写の変化を通して痛感させられる。また書き換え前と後の主人公の名前がケンゾーから謙三になりすっと馴染んでいるのが物語と重なり、私たちに他人ごとではないのだと感じさせるのだ。異文化の経験がインストールされることで、書き換わっていく主観描写が丁寧に描かれているからこそ、テクノロジーによって変化していく人間というものを深く意識することになるし人間とは何なのかを改めて考えることのできる作品になっている。日本に生まれ偏った思考を持っているだろう私が、違う文化を持つことができたらどんな人間になってしまうのだろうか。もし、自分で自分の文化を選択できたら自分は何を選ぶのだろうか、その時自分は、世界はどう変容しているのだろうか。

##デザインフィクション演習