世界で最もその名前に面白味の欠片もない島は、キリバス共和国に所属する「オーシャン島」だろう。さらに言うと、その島を1840年に「発見」したのが、イギリスの船であるその名も「オーシャン号」だという二段オチになっていて素晴らしい。海の島、海の船。「マグカップ」という和製英語の「マグ」が実は「cup」と同義でしかないと知ったときの笑いと同じ類の笑いがこみ上げてくる。
他方、「オーシャン島」と同じページに「オスロ」がある。「As(神の)」の「lo(森)」で、オスロ。今、Googleで画像検索してみるがそこには神も無ければ森も無い。かつての「神の森」が今ではビジネスの街になっている。仕事やお金への信仰が集まる場所として捉えるなら、相も変わらずオスロは「神の森」なのかもしれない。とはいえこれらの推測は単なる私個人が作り上げるフィクションでしかない。
ここに挙げた「オーシャン島」や「オスロ」という例を引き出した『世界地名語源辞典』という本は、こうした類の推察、空想を無限に作り出すには唯一無二のツールだと言えよう。もちろん、明白なエビデンスもなく適当なでっち上げをしているのは読者の私であって、当の書籍自体は多くの文献資料を基にして書かれている。著者の編集作業は立派な学術的貢献であるのに対し、私がイケアの椅子に腰掛けて行う読書は個人的娯楽に過ぎない。だが逆に言うと、気持ちの赴くままに本書に集められた地名の語源を探っていくことは「立派な遊び」である。
哲学者イマニュエル・カントが『判断力批判』において芸術を「構想力と悟性の自由な戯れ(Spiel)」として解析したように、対象にある意味や含意を読み込んだり、あるいはそれを別の意味に置き換えたりすることは一つの「遊び」であると同時に、趣味的経験、美的経験をもたらすものである。たとえば「エルサレム」という土地の語源が「Jeru(礎)+ -salem(平和)」かそれとも「Salem(麗しき黄昏の神)のJeru(礎)」かというように複数の仮説がある際に、私がこれらただの語源に「燃え/萌え」てしまうのは、そこに美的な経験が含まれているせいかもしれない。
あるいは、「ブリュッセル=沼の(Bruoc)家(sella))」や「オックスフォード=雄牛の(Ox)浅瀬(-ford))」のように、何気なく使っている固有名詞が昔の人にとっては固有の意味を持っていたであろうと気付くこと、それにより、既に現世にいなくなった人間の意思が私たちの口を通して誰かに何かを伝えているような感じを抱きもする。言葉の不気味さ(das Unheimliche)、という経験にも語源を辿る行為の中で出会うことだろう。