あなたは人間の目に向き合う方が苦手なのか、それともカメラのレンズに向き合う方が苦手なのか。私は間違えなく後者だ。
ハンス・ベルティングは著書『イメージ人類学』において、とあるカメラマンが銃を持つ軍人の姿を撮ることで相手に射殺された、という極端なエピソードを挙げている。このエピソードを読んだ私は、「もし彼が当時写真を撮らずに、ただじっとその軍人を見つめていれば、少なくとも撃たれずにはすむだろう」となんとなく思った。しかし、じっと考えると、それは何と不思議なことだろうか。同じ「見せられること」なのに、なぜカメラのレンズの前に自分の姿を晒す方が嫌なのだろうか。それについて、ベルティングは「写真を撮ること(shoot)」と「射撃」との何らかのアナロジーを提起し、撮影を狩猟につなげようとしているが、それは果たして全ての解釈なのだろうか。「夏目漱石『ガラス戸の中』第二節読書感想」を読んでいると、以上の疑問が一気に蘇った。
夏目もおそらくカメラが苦手な一人だろう。彼が雑誌社のカメラマンに写真を撮ってもらう時、最初は「当たり前の顔」を頼まれたが、あまりにも表情が不自然であったせいか、カメラマンはやむを得ず「少しどうか笑っていただけますまいか」頼み直したようだ。そして彼は後日、「気味のよくない苦笑い」の写真を手に入れた。しかしこの奇妙な経験はさほど珍奇なエピソードでもない。実際、私もよく同じことを経験している。カメラに「見られる」途端に、どうしても自分の容姿の欠陥が刻印されてしまうと分かっている。だから人間の目より、カメラの「目」が苦手だ。
こうしたカメラの「目」向き合う場合の不思議な心境もまた、人間の目とカメラの「目」との違いを露呈している。長谷正人『映像という神秘と快楽』の一章、「蓮實重彦、あるいはカメラの眼をもった男」は、以下のエピソードを掲げている。蓮實の妻・シャンタルは「あるものをじっと深く見つめ」るような「集中的な視線」で世界を捉えているが、彼女の画家の父も、映画評論家の夫・重彦も、なぜか「さまざまなものの上を揺れ動いて」いるような「包括的な視線」で世界を捉えているそうだ。長谷はこの「包括的な視線」を「カメラの視線」と呼んでいる。なるほど人間は対象物をじっくりと凝視する傾向―そうでなければ「愛情を欠いたよそよそしさにつながるように」思われてしまう―だが、こうした凝視のような「集中的な視線」はカメラの「目」には到底できるわけがない。逆に言えば、カメラの「目」はレンズを通してフィルムないしはCCDに投射された対象からの光を選択なしに摂取しているが、人間の目は対象の本の一部をしか見つめることができない(もしカメラのように「選択なしに」対象を捉えようとすれば、蓮實のようにちらりと視線を動かしながら目の前の世界を「スキャン」するしかない)。実際、長谷がよく言っているとおり、人間の目は対象物を「見る」が、カメラの「目」は対象物(からの光)に「触れる」。すなわち、人間の目とカメラの「目」とは、そのメカニズムが異なっているのだ。我々が人間の目に向き合うときは、相手が自分の本の一部分をしか凝視できないため、相手が自分の欠陥を見ていないことも期待できる(だから相手の目を凝視しないちらりとした視線は嫌われる)。それに対して、我々がカメラの「目」に向き合うときは、いくら期待していても、何かの後ろに隠さない限り、自分の欠陥が容赦なく触れられてしまう。我々がカメラの「目」に向き合うと気まずくなるのも、きっとこのことを暗黙的に知っているからだろう。
こうした不思議な経験を長谷的にコメントすれば、「人間は所詮馬鹿だ」。