現在人間が担っている職業の多くが、近い未来にはAIに奪われるという。しかし、「働く」ということを人間はそう容易に捨てられるものなのだろうか?
『R62号の発明』では、主人公が失業のために自殺を試みるところから始まる。その後R62号君として機械のために働かされることになる。
また、『鉛の卵』では、80万年後の人類は「どれい族」として登場する。80万年前からやってきた古代人に、未来の知的生命体である植物人たちは「働くのが好きか」と質問を投げかける。働くのが好きなら「どれい族」つまり人類であり、嫌いなら植物人だと言うのだ。
もちろん、この二つの話が書かれた1970年代と現在とでは社会の様相は変わっている。この本が発行されたのは1974年だから、執筆している頃はモーレツ社員が活躍していた高度経済成長期であろう。昼夜問わず無休で働き続けるサラリーマンの姿は、正しく生き物よりはロボットに近いものであったに違いない。
しかし、失業によって死を選んだり、何を作ってるかも分からない機械を操作するために血を流していくR62号の姿には、現代にも通じる人間の「労働」への執念を感じてしまう。
そもそも何故忙しく働くことが美徳とされているのか。突き詰めれば80万年後の植物人達のように、栄養を補給して遊んでいるだけで十分なはずなのだ。
物心ついた頃から「将来は何になるか」と聞かれ、就学すればそのゴールは就職に置かれる私たち。学業以外に何か打ち込めるものをと始める部活も、集団行動に慣れるためなど将来を見据えた目標を与えられがちである。「いかに役に立つか」が重視されすぎるあまり、人間の本質自体が機械のように有用性に結びつけられてしまうことも多々ある。
職業の担い手がAIに取って代わられたところで、人類は働くことを辞めないだろう。R62号や古代人のように、近い未来、AIの目からは働き続ける私たちの姿が滑稽に映るのだろうか。