2019年11月12日 00時12分

涙の社会から感じた危機感

大原いまり

星新一 「マイ国家・ひとにぎりの未来」

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『ひとにぎりの未来』は星新一のSF短編集で、こんなものがあったらどうなるか、こんな社会になったらどうなるかという話が、ユーモアたっぷりに描かれている。その中で特に印象的だった作品は、『涙の雨』である。

ここでは、ある広告代理店の企画した社会全体を包み込む大規模な〈なみだ計画〉により、泣くことがすべてに良い影響を与える至上のものとして崇拝され、人々がありとあらゆる状況で泣くという社会が描かれている。まず、計画の手始めとして悲しみの権化のような表情と声を持った歌手を作り出す。歌手には悲しみを高める薬を飲ませ、会場には催涙弾をぶちこみ、歌手と観客が泣き、それをテレビでそれを観ている視聴者にも涙が伝染する。人々は泣いたあとの心が浄化される快感を知り、それをもっと欲するようになり、あっという間に涙の社会が作り上げられたのである。一度プライドを捨て感情のままに泣いてしまえば、それを見た人も同情の涙を流し、優しさだけですべてが平和に解決。法すら通用しない。涙は心も社会も清くする、神が人間に与えた最高の液体、涙を流さないやつは人間ではない。そんな価値観の根付いた社会。涙の水蒸気ががたちのぼり、雲となり、雨となり、涙の雨を降らせる。草、木、ビル、道路…万物が泣いている。泣く感情のない人や外国人は自ずと離れていき、不気味な状況の真相を探ろうとしたスパイの手にも負えない。そうして異質な者はいなくなり、皆が同じ、皆が泣く社会。

『涙の雨』にはSFらしい近未来的なテクノロジーは登場しない。しかしテクノロジーと結びつけてこの作品を考えてみると、テクノロジーの発達による恩恵を受けると人間がどんな状態になりうるかということが暗示されているように感じられた。涙の効果を知りいつでもどこでも泣くようになる涙の社会の人間は、便利なものや快楽を与えるものを手に入れ、それに依存する現代社会の人間に似ていると思った。また、涙の社会では、泣けない人は病院で治療を受けるようになりそれでも治らない人は村八分にされた気分になって自ら国を出ていくのだが、この部分には、あるものがあまりにも普及すると、それを共有できない人が疎外されてしまうという問題が表れているのではないか。人に恩恵を授けるはずのテクノロジーが、人を依存させ、それを持つ人と持たない人とを分断する。その過程を、『涙の雨』を通して見ることができた。『涙の雨』を読んでもうひとつ連想したのは、ナチス・ドイツだ。極端な話かもしれないが、人々があるひとつのものを皆同じように盲信している異常な社会という点では、涙の社会はナチス・ドイツと変わらないのではないだろうか。『涙の雨』は、ただの面白おかしいクレイジーな社会の空想ではなく、依存や盲信といった人間の性質をよく表しているようにも感じられ少しぞっとした。このような人間の性質こそが涙の社会を作りあげた。多くの人々があるひとつのものに対して、依存したり盲信したりすると、ディストピアになりうる。さらに恐ろしいことは、その状態にある人々は、そのことの異常さに無自覚であるということだ。多くの人に受け入れられるようなものや価値観には、そのような危険性があるのではないかと考えさせられた。