2019年11月11日 21時19分

自我の境界線を探る

小林凜

グレッグ イーガン 「ビット・プレイヤー」

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書籍の情報が登録されていなかったため表記上同著者の別作品の書評となってしまっているが、この書評はグレッグ・イーガン著『祈りの海』(早川書房)収録の「ぼくになることを」に対するものである。

この作品はいわゆる「哲学的ゾンビ」の延長線上にある問題を扱っていると言えるだろう。「哲学的ゾンビ」とは脳の神経細胞に至るまで人間と同様に作られており、いかなる手段においても人間と区別することが出来ないゾンビのことである。SF作品の題材としてもしばしば取り上げられ、私もダ・ヴィンチ・恐山作「下校時刻の哲学的ゾンビ」(オモコロ)でその存在を知った。

この作品の世界では、人間はある程度の年齢に達すると「宝石」と呼ばれるものに自らの意識、身体の操作を「スイッチ」し、不死を得る。重要なのはこの「宝石」が生来の哲学的ゾンビではない、ということである。哲学的ゾンビと人間を区別するものは主観的な意識(クオリア)、いわば自我の有無である。しかし、「宝石」は自我を持っており、それゆえに「教師」と呼ばれる装置に矯正を受ける。いずれ自らと取り替えられる人間と同じ認識を持つように「宝石」は絶えず修正され続けるのだ。

主人公は「スイッチ」後の自分が自分と言えるのか長年思い悩む。このようなテーマは菅原そうた『みんなのトニオちゃん』のエピソード「アルバイト(BUTTON)」(「5億年ボタン」の俗称で有名)でも取り上げられているものである。しかし、この作品はさらに先の問題へと進む。主人公は「教師」の故障によって自らが「宝石」であることに気付く。そして「ぼくは一マイクロ秒ごとに抹殺されつづけてきた」と語る。「教師」の不在によって自我が復活し、自分は哲学的ゾンビにさせられてきたという認識を持つのだ。そこで起こるのは身体という1つの椅子をめぐった椅子取りゲームである。この状況において人間と「宝石」は全くの平等であるがゆえに、この椅子取りゲームに倫理的な判断を下すのは非常に困難だ。この物語においては「宝石」がその椅子を最終的に手にするのだが、結末がどちらであったとしても気分の良いものではない。

この作品が提起しているのは単なるシンギュラリティ論ではないと感じる。もちろん、近い将来に「椅子取りゲーム」が発生しうるということは容易に想像できる。しかし、矯正されるのが「宝石」の側ではなく人間であるという可能性を考えてみたい。その場合、我々は「宝石」の登場を待つまでもなく自我を失ってしまうのではないだろうか。哲学的ゾンビは実在を前提とした概念ではないが、人間がそれに近い形に進んでいくことは十分にあり得るように思える。どこまでが自我と言えるのか。この作品はその境界線を探るきっかけとなった。