2019年11月11日 07時05分

技術革新の先にあるものとは

山本しず音

長谷敏司 「Mai hyumaniti」

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 今回私が選んだ作品は、長谷敏司が第三十五回日本SF大賞を受賞した『My Humanity』に収録されている『地には豊穣』という物語である。この作品は、疑似神経制御言語ITP(Image Transfer Protocol)という新たな神経伝達技術の実用化を巡って、人々の様々な思いが交差するといった展開だ。ITPは、脳内に埋め込まれたチップが、本来は使用者の脳内にはない神経連結を作りだすことによって、他人の経験そのものを直接脳に伝達させ、すぐその場で専門の技術者を生み出すことができる。つまり、脳というコンピューターに抽出された経験をインストールすることができるという画期的な技術なのだ。しかし、ITPの開発者がアメリカ人であったために、英語圏文化の洗脳が懸念されるといった問題が上がる。そこで研究員の主人公ササキ・ケンゾーとジャック・リズリーの二人は日本で活用するための様々なシステムの調整を行なっていくのであったが、二人の間に《技術か文化か》といった取捨選択の意見の相違が生まれる。ケンゾーは、「(ITP は)人間という個体差の大きいコンピュータ上で、経験という同じプログラムを動かすOS(オペレーティングシステム)だ。そういう技術に、意味を求めたくはないな」と言う。しかし一方でジャックは、「経験伝達を使えば、いまこの瞬間も失われつつある文化を、抽出記憶のかたちで蓄えることができる。かけがえのない財産である、文化そのものの保管庫(アーカイブ)を造ることだってできる。経験伝達技術の可能性は、専門技術者を即席に作り上げることだけではないんだ」と言う。こういった考えのやりとりがこの物語の芯である。

 私はこのケンゾーとジャックの意見の対立に対して、ジャックの考えに共感した。他人が経験したことを記録して後世に残せるのならば、今では見られないはるか昔の経験を、危険を冒さず共有することができる。だから、今現在の文化を記録して、未来のためにこのITPを活用するのが良いと思った。しかし、作中でケンゾーが陥る、自分に他人の経験を投影し過ぎてしまったが故に起こる《自己喪失》のように、自分が誰なのか、そして《自分自身の文化》というものが失われるといった現象は、人間にとっての一番大切なものが失われるような気がして怖いと感じた。だから、技術か文化か、といった問題の前に、そもそもITPが実用化されることよって、人間にとっての「学び」はなくなり、従って「学び」の中で形成される「自分」も無くなってしまうのではないかという不安が生まれ、何かを得るためには何かを犠牲にしなければならないということを改めて実感した。

 今現在私たちも、AIなどの技術の発展により、数年前ではあり得なかったことが現実になるといった、様々な変化を目の当たりにしている。だから、ITPが現実になる日もそう遠くはないだろう。そこで私たち人間はどういった選択をするのか、どのように技術と共存していくのか、不安を抱えながらも、その行方に期待を寄せている。