2019年11月11日 09時25分

冷たいSF?

yuka_k

星新一 「ボッコちゃん」

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 まだ私が幼かった時「SF小説」といえば、遠い未来の出来事を私たちに叔父を介して体験させてくれる魅力的な存在であった。ロボットと暮らす日々、空を飛ぶ車、宇宙旅行やボタン一つでなんでもできてしまう機械。それらが登場する作品を、私はあくまでも小説の中の話だと割り切って楽しんでいた。どこか違う空間に存在する、起こりえない未来の話だと。

 星新一氏による「ショートショート」と呼ばれるジャンルに属する物語たちは、代表的なSF小説である。しかし彼の小説には楽しい未来、というものは描かれていない。正確にいえば、「楽しいだけの未来」は存在しない。

 『ボッコちゃん』は星新一氏の自選短編集である。1001篇ともいわれる膨大な量のショートショート作品を生み出した星新一氏は、日本SFのパイオニアといわれている。そんなSF小説の父は、感受性が豊かで他人を傷つける様なことは決してしない優しい人物だった。しかしそんな彼の温かな人物像とは反対に、彼の作品からは冷たく透明な印象を受ける。モヤッとしたり気味が悪かったりする結末の話が多く、幼い頃に読んでトラウマとなったと話す友人もいる。私自身、小学生の時に同氏の別作品『N氏の遊園地』を読んでその薄気味悪さに途中で投げ出してしまった。

 それから10年ほどが経ち改めて星新一氏の作品と向き合ってみると、そこに描かれていたのは遠い未来ではなく限りなく現在の世界に近い「起こりうる未来」であった。

 例えば「ゆきとどいた生活」という話。《声》と《手》によって身の回りの支度を全て自動で済ますことができる未来の住宅で、テール氏は時間や身支度を全て機械の管理下に置いていた。その日もなかなか目覚めないテール氏をよそに《声》と《手》は淡々といつも通り準備をし、彼を仕事へ送り出した。しかし会社についてもテール氏は目を覚まさない。実は彼は、昨晩すでに息を引き取っていたのだった──。機械が我々を見守り管理している様で、実際は何も見えていなかったという恐ろしさ。これは、個人情報や健康管理などを機械が担うようになってきた現代社会が、近い将来嵌る落とし穴を照らし出しているように思えてならない。

 冷酷に我々の未来を描き出している星新一氏は、しかし、必ずと言っていいほどどの話にも人と人との会話を登場させている。会話は不自然なほど淡々としていたり独特の口調だったりするが、この会話に他人の気持ちを大切にしていた星新一氏の温かさが滲み出ているように思う。過去も現在も未来も、そこには必ず人が存在する。遠い未来も近い未来も、それらを創り上げるのは人間であり、会話は途切れることはない。

「起こりうる未来」にまつわるSFを50篇読んだ後、心の奥底から人との会話を求める自分に気がつく。冷たい未来を恐れ、自然と人との関わりを求めてしまう。人の温もりに気づかせてくれる。これが星新一氏の作品が長く愛されている理由なのではないだろうか。

幼い頃夢見た「楽しいだけの未来」は存在しないが、それは「楽しいだけの現在」が存在しないのと同じである。星新一氏の作品は、冷たさをもって我々が失いかけている温もりを教えてくれる。

#SF