2019年11月11日 04時46分

ありうる怖さ

林田つぐみ

ジョージ・オーウェル 「一九八四年」

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一九八四年を読んでいる間ずっと吐き気のような気持ち悪さが私につきまとっていた。本書はどこまでも現実的で非現実的である。

一九八四年の題材はまさにディストピアであるが、ディスロピアとは現実に「存在するもの」でないことを示唆している。と少なくとも私は思った。ディストピアは現実に不満を持ち、打開したいという意志をもって初めて認識される。本書ではディストピアが自身の心の中で作り出され、ディストピアからの解放を得ようともがくことが悪だとする社会が描かれている。「ビッグ・ブラザー」という本当に存在するのか否かさえ怪しい人物によって”ほぼ”完全に支配されているオセアニアにおいて、本能や自身の思考は必要とされていない、もしくは排除されるべきものとして扱われる。主人公ウィンストンは過去の記録を文字通り塗り替える仕事についていたものの、心の中では記憶までは塗り替えることができないと信じていた。若いジュリアと出会ったウィンストンはディストピアからの解放をよりいっそう強く望むようになる。ジュリアとともにオブライエンを訪ね、過去と未来への希望を抱くが思考警察によって捕らえられてしまう。監獄の中で再開したオブライエンに拷問を受けながら二人の会話が続くシーンは想像をはるかに超えていた。人間がいかに思考しているかを捉えつつ、身体的・精神的な苦痛によってそれが奪われていく恐怖を描いている。このシーンもあまりにも現実的で非現実的であり身の毛がよだつが、もっともショックなのは最後の場面である。

最後の場面で主人公ウィンストンは他人の手によって、しかも自分の意思によって彼自身ではなくなる。身体こそ彼のままだが、彼の過去、現在、未来を完全に手放してしまっている。愛情ではなく自分を手放すことが起き得てしまう怖さはここにある。

##1984