この作品はSF史上最悪のパラドックスを描いたミステリー小説と言われている。「時をかける少女」の影響を受けているとの説もあるが、この作品はただの青春小説ではなく、欲や嫉妬など人間の腹黒い部分をも描いている。
2300年代の未来から来た少年保彦はある小説の一部を見つけそれを読むために、その小説の舞台となった時代1992年にタイムリープし、そこで中学二年の美雪と出会う。彼女は旧校舎崩壊事故から保彦を救うために10年後に行く。しかし10年後の2002年、中学生の時のこの不思議な体験を元に小説を書くのだが、10年前の自分がいつまでも現れなかった。起こるべきはずの未来が来ないことを不審に思っていると、自分の記憶と現実がズレていることに気が付き始め、過去が書き換えられていくタイムパラドックスへと繋がっていく。
保彦の住む2300年代では時を超える薬やバリア装置など便利な機能が多く開発されているため、1992年の原始的で非効率な生活に非常に驚くと共に少し嘲笑しているようだった。しかしながら、本心ではそんな便利な時代を生きづらく感じていて1992年の人たちの前向きに生きる姿を羨ましく思う描写がある。
私は、「時を超える薬」によって過去が書き換えられ、記憶と現実がズレていくことで小さな歪みもどんどん膨らみ、タイムパラドックスが起きていく展開に非常に恐怖や不安をおぼえた。
「見つけた小説が書かれた時代に行く」という正当な目的のために使ったが、それがどんどん歪みを生み出すことに繋がっていってしまうというのは、つまり便利なものとして開発されたものが皮肉にも悪影響を及ぼしてしまう可能性があることを示している。
私は筆者がこの作品で現代において効率化を重視して人間の生活をより豊かにするものとして開発され、導入されていくシステムにディストピア性があることを示唆し、本当にそれらのシステムが導入された世界は幸せなのかを問うているのではないかと考えた。例えばスマートフォンなどの画面を介してのコミュニケーションが今では当たり前になってしまっている。直接会わなくても連絡を取り合うこと、思いを伝えることが出来るのは非常に便利であるが、一方で文章だからこそ会話特有のイントネーションや微妙な言葉のニュアンスを伝えるのは非常に難しく誤解を生むことは多々ある。また画面越しで顔が見えない為言葉の重みが非常に軽視され、悪用する事件も多くある。「青春」という読者が読みやすいテーマを扱いながらも人間の生活を豊かにする物として生まれたものを人間の悪意がその便利な点を逆手に取り、悪用することも出来てしまう怖さをこれから保彦が生きる世界へと近づきつつある現代に生きる私たちに訴えかけている点で非常にメッセージ性の強い作品であった。