2019年11月11日 09時06分

SFから見るマイノリティ

中村 祐太

シオドアスタージョン 「一角獣・多角獣」

/* */ /* CONTENT AREA */ /* */

検索したが出てこなかったので、シオドア・スタージョンの別の作品の表紙をお借りした。私は彼の『人間以上』という作品を読んだが、題名通りこの作品には人間以上の能力を持った存在が出てくる。物語の主な登場人物は、白痴の少年、黒人の双生児、発育不全の赤ん坊、早熟の少女といった全員社会的に虐げられている者達だ。しかし、彼らは人間にはない様々な超能力を兼ね備えている。少年には精神感応(テレパシー)、双生児には遠隔移動(テレポーテーション)、赤ん坊には計算機(スーパーコンピュータ)の頭脳、少女には物体遠隔移動(テレキネシス)。これはそんな欠陥がある代わりに超能力を持った5人の子どもが集まり、それぞれの能力を協力させて一体になろうとする物語である。

なぜこの物語で、登場人物達は一体になりたがったのか。それにはマイノリティという言葉が関係しているのではないか。人間にはない能力を持つ数少ない存在である彼らは、それぞれ孤独な存在として全三章のうちの第一章で描かれている。途中まで読み進めないと把握しにくい内容が、まるで彼らが人に理解されない様子を表しているようでもあった。似たような作品として『X-MEN』が挙げられるが、そこに出てくる特殊な能力を持つミュータント達も、一般の人々に迫害され肩身の狭い扱いを受けている。2作品ともSF作品のなかで、私たちにマイノリティへの差別について考えさせる作品である。最近ではLGBTの問題が話題として取り上げられているが、世界には他にも様々なマイノリティが存在する。彼らは、孤独を避けるために同じような境遇の者達と寄り添うことで集団を形成し、社会に立ち向かおうとする。『人間以上』でも孤独な子ども達が、1つの個性として集団的有機体(ゲシュタルト・オーガニズム)を形成し、自分たちの生き方を見出していく。彼らの1人である少女ジャニイは、自らを集団人(ホモ・ゲシュタルト)と称し、奇形児ではなく、人類の新しい種類と訴えているところに強い印象を受けた。しかし、同じ世界に住んでいても人類の道徳組織や倫理の法則、規律は自分たち集団人にとって当てはまらないと主張しており、これはまさしくマイノリティの人が抱える悩みであるなと感じた。例えば、同性愛者による同性婚が日本を含め認められていない国があることが言えるのではないか。集団を望んで、人類と暮らそうとしても思うようにいかない切なさや葛藤がこの作品の見どころである。

この物語では最後集団的有機体を形成した子どもに対し、テレパシーが送られてきて彼ら以外にも集団人が存在していたことに気づく。そして、集団人も人類全体のなかで機能を担っていて、人類全体が大きな集団人である、つまり欠けてはいけない存在であることを知って終わるのだ。少しスケールの大きな話ではあるが、多文化社会を生きる私たちにとって無関係な話ではないので読んで考えるべき作品なのではないか。