魯迅。それは中国近代史において、最も注目すべき、そして、最も論争される作家である。彼の文章は、一部の人にとって、それが近代中国の『黙示録』であり、そして、もう一部の人にとって、それが単なる「憤青」の「吶喊」であった。
もしアレクサンドル・デュマから爽快感を求めるようなつもりで、或いは川端康成から美意識や恋愛の甘酸っぱさを求めるようなつもりで魯迅の小説を読んでみれば、それは誰しもガッカリするはずだろう。魯迅の小説はじっとも楽しくないし、じっとも美しくない。むしろある残酷の淵のソコへ誘われていくのだろ。ソコは魯迅の目で見ていた、「中国人」という「人種」の集合体としての「中国」なのだ。そして中国人であるわたしにとって、ソコで最も生々しく見えたのは、「中国人」という呪縛であった。そしてその呪縛を解けるためには、「中国人」としてのわたしはどうすればいいのか、という内省を余儀なくされた。
さて、魯迅が生まれ育った十九世紀末二十世紀初頭の中国は、果たしてのどんな中国であったのか。それは近代の主権国家ではなく、「半封建半植民地」の古き帝国であった:一八四〇年代から六〇年代までは、既に吉林、黒竜江二省の北東部やモンゴル、新彊二藩の北西部、広東省の香港がロシアやイギリスの植民地となり、さらに一八九五年は日清戦争の敗戦で、台湾省が日本の植民地として割譲される。かつて「領土」や「主権」ではなく、「彊域――属国」で自慢していた「大清帝国」は、この時期になると、もはや近代化済みの列強が作った規則の下に「瓜分」――瓜のように分割される運命を免れない。しかしその運命に対して、「支那」の為政者は、腐朽で、軟弱で、無力であった。一九〇〇年に義和団運動が八カ国連合軍によって鎮圧された後、露西亜帝国が、清帝国の「先祖の竜脈」・東北三省から撤兵せず、実質的な支配を行い、五年前に「三国干渉」で清に銀三千万両の代償で遼東半島を「返還」した日本帝国へ、軍事的な存在感を示していた。それに対して清は、なぜか同じく東北三省を狙う日本の力で、ロシアの軍勢を追い出そうとする。そのために清は、日本を学ぶ国費留学生を派遣し、そして一九〇五年の日露戦争で中国の彊域において「交戦地域」を設け、「中立」を声明した。なるほど当時の中国にとって、日本とゆう国は、極めて特別な存在であったのだ:第一に、日本という「弾丸の如く小さな国」が、まさか明治維新後のわずか二十年間で、アジアに誇る清に勝つほどの国力を手に入れた;第二に、日本は清と同じく「黄色人種」の国であり、そして同じく帝政の国である――この事実は清帝国にとって、なんと興味深いことなのだろう;そして第三に、中国の「開明人士」が、日本が西洋より学んできた近代の商業や医学から軍事や政治に至るまで注目した結果、「日本は黄色人種の優等生である」、という結論へ導いてみた。かれらは日本という国を恨みつつ、「中国のあり方」という夢を見続けていた。
勿論、当時の若き魯迅は、この大きな物語を痛感していたはずではなかった――彼の幼年期は、父親の病で、ひたすら質屋と薬屋の間を往復し、そして「三年の霜を経た甘蔗」や「番い離れぬ一対の蟋蟀」というような「処方」を出す「名高き」医者にも付き合っていた。父親が「遂に甲斐なく死亡した」後、彼は南京の近代学校に入学することを余儀なくされた。当時の中国では、「八股」という試験を経て官になることは正道で、李鴻章の洋務派が提唱する「実学」はあくまでも途方を暮れた人が為すものだと世間に思われていた。にもかかわらず、近代学校で「実学」を学んだ魯迅は、遂に父親の病気を診ていた「名医」の本質を思い知らされる。中国の人々が父親のような運命から避けられるように、彼は躊躇なく、一人で憧れる日本へ向かった。
しかし、魯迅留学生活は決して順調とは言えなかった。仙台の専門学校において、彼はたった一人の中国人として格別な配慮をされていたが、日本語が上手くできず、講義のノートでさえも悪戦苦闘であった。しかしよその生徒から見れば、それは「中国人だから」であった:「中国人だから低能児」で、試験に合格しても不正行為だ。こうして魯迅は、「中国人」という呪縛を、初めて背負ってみた。
そして魯迅の運命を変えたのは、ある日の事件であった。
講義が一段落終わると、当時勃発している日露戦争の時事写真が幻燈で放映されるが、魯迅はそのお陰で、久しぶりの「中国人」の顔に再び出逢った。しかしそれは、ロシアに日本軍の情報を売った一人の中国人が日本兵に斬首される光景を見物していた中国人たちの写真であった。「いずれもガッチリした体格ではあるが、気を抜けた顔をしていた」。その気を抜けた「中国人」たちの顔に向けて、魯迅は、中国人の病気を治すよりも、「中国人」の思想を治す方がずっと大事、と嘆いた。すなわち、「百姓」は近代の国民意識を育って初めて「国民」が成り立ち、それなのに、すでに「中国人」という呪縛をつけられている中国の「百姓」は、いまだにその国民意識がない。そして、国民意識がないからこそ、権力に怯え、暴力に怯え、列強に怯え、そして国が「瓜分」されていても、同胞が殺されていても、さらに「中国人」として軽蔑されていても、ただ自己麻酔のつもりで、気を抜けた顔をするしかないわけだ。「中国人」には、啓蒙が必要なのだ。
こうして、魯迅の小さな物語が、「中国のあり方」という大きな物語に繋いだ。しかし魯迅は「腕を振って一度叫べば応える者が雲の如く集まる英雄」ではない。彼の叫びは、ただ谷に一粒の砂を撒いたように、間もなく「中国人」の群れに溶けられた。魯迅は寂しかった。一人だけでは所詮無力で、軟弱であり、結局ほかの「中国人」と同じように自己麻酔をし、気を抜けた顔になるしかなかった。数年後に、左翼雑誌を主催する友人の誘いに対して、魯迅はその退屈感を尽くす:
「たとえば一間の鉄部屋があって、どこにも窓がなく、どうしても壊すことが出来ないで、内に大勢熟睡しているとすると、久しからずして皆悶死するだろうが、彼等は昏睡から死滅に入って死の悲哀を感じない。現在君が大声あげて喚び起すと、目の覚めかかった幾人は驚き立つであろうが、この不幸なる少数者は救い戻しようのない臨終の苦しみを受けるのである。君はそれでも彼等を起し得たと思うのか」
それに対して、友人は返事する:
「そうして幾人は已に起き上った。君が著手しなければ、この鉄部屋の希望を壊したといわれても仕方がない」
希望。それはあくまでパンドラの箱に閉じこまれた、シュレーディンガーの猫のようなものだが、魯迅はそれを賭けようとする。なぜかというと、希望というものだけを、否定することができないからだ。それは「中国人」の思想を治す希望であると同時に、「中国人」である彼自身の思想を治す希望でもあるのだ。
だが魯迅は、彼一人だけでは、「治す」術がないと気が付いた。彼は「クスリ」ではなく、「メス」を選ぶ。彼は「中国人」、いや「中国人」である彼自身に「メス」を入れてみせた。魯迅の文学は美の文学ではなく、じっとも美しくない「解剖学」だ。「たしかにこう書けば見てくれはいい。しかし君、解剖図は美術ではないのだから、実物の様子を勝手には変えちゃいかんよ」と仙台時代の恩師・藤野厳九郎が教えたとおり、魯迅は自分自身の中の「中国人」に、封建社会の迷信や礼教という皮膚を剥がし、その中に潜んでいる権力への憧れ、暴力への軟弱、科学への冷徹、迷信への狂熱、他人への欺瞞、そして自己への麻酔といった病を、そのまま解剖する。そしてその断片を、ワクチンのように、生々しく中国人に見せ、いや、注ぎ込んだのだ。
それは魯迅の叫び、「吶喊」であった