応用物理、計算機科学、アートコンテクストを融合させた作品制作・研究に従事している落合陽一。〈現代の魔法使い〉とも呼び声高い彼は世界をどう見るのか。『魔法の世紀』には、過去のメディア変遷や知られざる現代の実情、そしてこれから21世紀に何が転換されるのか、様々な視点から描かれている。
まず、「魔法の世紀」とはどんな時代なのだろうか。20世紀は「映像の世紀」であり、人々は「映像」を通して時間と空間、人間同士のコミュニケーション、イメージの伝達方法、虚構と現実の関係などを考えていた時代だ。それに対して「魔法の世紀」は、映像の共有によって維持される社会とは異なり、人間や物事が中間物を媒介せずにコンピュータによって直接繋がる時代である。「魔法」という言葉を使うのは、生活を支えるテクノロジーは我々の行動の幅を広げる方向に発展しているのにも関わらず、その仕組みはまるで魔法のようにわかりにくくなっているからだという。「魔法の世紀」では我々が情報と直接触れ合うような感覚を与え、複雑な動作機序を計算機が吸収すると同時に、その状態が水や空気のような無意識下に続くような〈非メディアコンシャス〉が実現するのだ。
私がこの本を読んで一番印象に残ったのは、これからのメディアアートは表現における感覚的な側面を重視すべきという指摘である。
そもそも、20世紀半ばに誕生したメディアアートは「メディアそのもの」を作る試みを芸術表現としており、その流れは二つある。ひとつは、「文脈のゲーム」としての芸術である。これは、美しい絵などによって感覚的な快楽を刺激することよりも、新たな文脈を構築する方が重要であると考えるものだ。一部の発信者の作品に膨大な注目を集め鑑賞者を限定することで権威が生じ、そこで作り出された共通の文脈はメディアを通じて発信され世界全体の文脈となる。つまり、その共通文脈にのっとり批評的に複雑なコンテクストを負わせるような作品が評価を得ていたのだ。しかし、21世紀になりインターネットが世界中で普及すると、創作物は時間と空間を超えて誰もが鑑賞できるようになった。文脈は膨大化・複数化して既に飽和状態にあり、皆が合致できる共通言語は存在しなくなっている。こうした状況の中で、メディアアートは二つめの流れに傾き始める。それは「原理のゲーム」としての芸術だ。これは、メディア表現そのものが生み出す感動や違和感を直に突きつけてくる作品である。文脈を超えたところで人間に衝撃を与えるタイプの原初的な感覚を対象とした芸術なのだ。
「映像の世紀」では表現とメディアは分離されていたことに加え、メディアそのものには感動の核になる要素が入っていない。よって、その表現の部分が注目され評価されてきた。しかし、メディアと表現が曖昧になっていく時代においては、感覚に直接訴えかける装置としてのアートが台頭してくる。
私は今まで、メディアアートに限らず芸術作品には必ずしも意味が内包されていないといけないのかと疑問に思っていた。受け取るメッセージは人それぞれだし、素直にすごい、感覚にビビッとくる、といった感想だけでも良いのではないかと感じていたのである。例えば、以前美術館に行った時、ある作品を見て私は呼吸が可視化されたみたいな作品だなと感じた。しかし説明文を見てみると、それは高速道路でタイヤに潰された虫の拡大写真だったのである。私は自分が思い描いたものとのギャップ、そしてその作品自体の斬新さに驚いた。この作品のメディアは写真だが、色と形を載せる媒体としての物自体にまでハックをしかけて、視覚以外の効果を配慮しながら創造される作品がこれから出てくるのではないか。「魔法の世紀」では驚き、感動、恐怖、没入感などの感覚が共通言語になると知り、自分の感性に通じるものがあれば文脈がなくてもそれでアートたり得るようになるのだと納得がいった。