2019年05月09日 04時38分

親愛なる いとうせいこう様へ

JUNYA

いとうせいこう 「親愛なる」

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 この小説を開けば、いとうせいこうからメールが届き、何故か行き違いが起きる。そして、いとうせいこうからこのメーリングリストというコミュニケーションメディアを奪い合うゲームを提案される。いとうの書いた小説に私たちがのめり込んでしまったら、いとうの勝利というものだ。そして、いとうはこんな物語を書き始める。テクノロジーにより単一言語が達成された世界を舞台に、バグにより言葉を持てなくなった者たちと言葉を統制する権力が衝突するというものだ。しかし中盤、小説内の主体と客体は入れ替わり、読まされていた側の私たちが物語の中心に引きずり込まれていってしまう…。

  断言する、ひどく複雑な作品だ。しかしその複雑さは、まるでよく出来た工業製品のように、全てのパーツに無駄がなく、規則的に並んでいる。全体からきちんと読み解けば、理路整然と構造と主題の連鎖を確認できることはわかる。しかしその道を辿り、歴史に照らし合わせ(いとうはものすごい研究家だから)、論理的に説明された論文も解説もどうやらないらしい。このように解説不可能であるのは、作品の要素があまりに多いことに加え、いとうが実にユーモラスで芸能的な人間であることも要因になっていると私は考える。何を隠そう、単純におもしろいのだ。入れ子構造や、何層にも重なる語り手の存在などに思いをめぐらせなくても、物語が、表現が、吹き出すほどにおもしろく、目を見開くほどに引き込まれるものなのだ。

 さて、いよいよ私もこの作品の緻密さとスケールに文字数をとられ、何も語れないままに終わってしまいそうだが、一点、弱い思考に恐縮しつつ、意地で書き残しておこうと思う。

  劇中作『WHO@WHERE』の結末に登場する神話についてだ。徹底して言葉と世界観、さらには社会勢力を一繋ぎにして語ってきた物語の終着が、言葉を持たない者の語る神話であるのは非常に示唆的だ。まさに、言葉が世界の見え方を示す原始的な瞬間といえよう。「昔、地上に人がいた」から始まるその神話は、物語の現代を過去形で捉える。武力衝突が今起きようとしている状況を過去から、事実として語り直し、その様相を露わにさせる。まさしく過去形の力であり、言葉が現実さえ歪める魔力を発揮する瞬間だ。しかし、言葉を持たない者は、それを言葉で語らない。死に物狂いで踊り、奏でるのだ。その飛躍は「詩」であり、論理の外にある。そして、物語の外にいた私たちへも、いつのまにか神話は実感を持って襲いかかってくるのだ。

 東大教授の安藤宏の著書『「私」をつくる』によれば、印刷技術の向上で、作家の人物像が周知されなくなった日本近代小説は、いかに読ませる力を与えるかが課題になってきたそうだ。芥川の実験も、太宰の自意識も、そこから発せられた工夫だという。この作品も明らかにその系譜にある。しかし、メタ作品として小説という媒体の虚構性を示しながらも、言葉と世界観をめぐる永久的な問いに、神話という最大の虚構で返答している点は意識しなければならない。二重構造を自己言及のために終わらせず、神話のリアリティに伝染させる、いわば逆張りとも言える試みこそが、この作品の最大の魅力であり魔力なのだ。自己批判の外に出て、外界との接続をはかるその姿勢には芸術の役割を改めて思い知らされる。外から見つめ、危険性を知り、最大出力で答えを導き出せるのはマルチな作者の活動があってこそだろう。

 というわけで。

 せいこうさん、大好きです。