2019年05月09日 03時01分

知能と愛情

Wakana Sugesawa

ダニエル キイス 「アルジャーノンに花束を〔新版〕」

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誰しも特別になりたい、という願いを少なからず持ったことがあるだろう。しかし、特別になること、人より優れることは本当に幸せなことなのだろうか?

31歳だが幼児レベルの知能しか持たない、いわゆる知的障害者だったチャーリィー・ゴードンは、実験台として施された手術により一時的に天才的頭脳を手に入れる。彼の「りこうになりたい」という強い願いは母親の願いそのものであり、賢くなることで周囲からの愛情を得られると信じていたのだ。しかし、優秀になればなるほど彼は孤独になっていく。最後、自我が保てなくなるほど再び知能が低下してしまったチャーリィーが望んだのは、同じ実験台となり亡くなったネズミのアルジャーノンに花を手向けることだった。結局、知能を手に入れた代償に愛情を失い、反対に知能を失った彼に残されたのが真の愛情だったのだ。作品全体を通し、チャーリィー自身の視点から、彼が書いた経過報告書という名の日記という形で全編の内容が語られる。知的障害者と天才というどちらも読み手である私とは全く異なる身体でありながら、彼が何を望み、何に不満を抱き、何を好んで嫌うのか、それらが手に取るようにわかる。

私が小説を読むとき、主人公を始めとする登場人物に自己投影できるかどうか、を重要視することが多い。自分自身を重ねやすいキャラクターが登場する小説は気に入った作品に挙げられやすいし、反対にキャラクターの感情を置き去りにしてストーリーが展開する小説は楽しめないことが多い。そのため、海外小説やSF小説には苦手意識があった。現実世界では、当たり前だが現時点では外科手術によりIQを格段に上げることはできない。この小説はジャンルで言えばSFに属している。しかし、それでも私自身がチャーリィーに重ねられる部分が少なからずあった。知能が得られる代わりに愛情を失ってしまう、ということは現代社会にも起こりうる問題なのではないだろうか。近年の技術発展は目覚しいものがある。けれど、新しい技術を手に入れることが、私たちの生活を本当に豊かにしているか、却って何かを失っているのではないか。素晴らしい知能を手に入れることが本当に幸せなことなのだろうか?現代に生きる私たちこそ、チャーリィーの問題に向き合うべきなのかもしれない。