2019年05月08日 08時12分

つくも神を知っている

糸井康子

小路幸也 「すべての神様の十月」

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子供はすぐに成長するからと、いつも少し大きめの靴を買っていたころが懐かしい。このあいだまでは余裕があったのに、今日履いてみたらつまさきの指は窮屈だし、かかともきつきつになっている、なんて事が何度あっただろう。その度に、決まって母は古くなった靴にお礼とさよならを言ってから捨てるのだった。長く使った道具には心が宿るとする考えは、つくも神に通ずる。車を買い換えるときも、割れたお皿を捨てる時も、母は「今までありがとう」と話しかけていた。そういうわけで、わたしも心の隅っこでつくも神の存在を知っている。この本にはいろいろな神さまが出てくる。その誰もが、なんとなくその存在に覚えがあるような、見たことはないけど会ったことはあるような、しっくりほっこりとした存在感で心地いい。読後感は懐かしさに似ているかもしれない。たとえば貧乏神は、家にとりついて大中小の不幸を降らしつづけるのだが、貧乏神自身も不幸の大きさの調整に苦労しているようだ。ただの理不尽な神さまではない理由にはうるっときてしまう。他にも、行く人来る人、土地の歴史を見守る道祖神や、福の神、疫病神などが登場する。その中でも一際しっくりとした存在感を感じさせてくれたのが、茶釜についたつくも神の話だった。使われなくなった古い茶釜が、久しぶりに目を覚まし、かつての持ち主の孫に話しかける。いまではごはんを炊くのには炊飯器を使うのが当たり前だ。炊飯器のほうが、楽だし早い。茶釜で炊こうとすれば手間がかかる。だが格段においしいのだそうだ。あるなあ、そういうの。と思った。わたしの道具には、この茶釜ほど、おばあちゃんもそのまたおばあちゃんもお世話になったものを受け継いだんだなんていうくらいの歴史はない。それでも、道具には思い出がくっついている気がする。古くても、もう使わなくても、捨てるのは忍びないものがある。つくも神は、愛着や、居心地の良さという温度のある感触を感じさせてくれる。捨てる間際に感じる忍びなさは、つくも神の透明な引力かもしれない。