2019年05月07日 22時11分

私もぼちぼち老人力を

金廣 裕吉

赤瀬川原平 「老人力」

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 大事にされて、年季の入ったものには魅力がある。母は赤瀬川原平を敬愛しており、我が家の本棚の見につきやすい位置には、数年前の引っ越しを経ても変わらず『老人力』が置かれている。そんな本書をこれまでも気にはなっていたが、「また今度また今度」で未読であった。

 『老人力』は、1998年発行の赤瀬川原平の著書で、「ボケ」にはじまる「老い」の特性を、ポジティブに捉えなおすことを提案している。

 先日遂にこれを読んで驚いた。というのも、自分がこれまでにモヤモヤと考えてきたことが、そこでは平易な文章で書かれていたからだ。これは結構ショックである。自分の内面、思想の輪郭の一部が、他人の言葉によって明らかになり、はっきりしてしまった。「それなら自分で考えていた時間は無駄だったのか」とも考えてしまったが、そういうことでもないだろう。本書の「言葉」と自分の感覚の一致は小気味良くも感じられた。新しい仲間(と言うには恐れ多いが)に出会えた気分だ。本書は、新情報との出会いというより、感じていた「何か」に「老人力」という名前が与えられていくような感触だった。

 まず私は『老人力』という題や帯を見て「自分はこの老人力とやらを、若いわりに備えている気がする」と漠然と予感したが本文中では「時代そのものに有限の先が見えているわけで、そういう時代に生まれてくるのだから、いまの若者は既に基礎控除のようにして、みんな一律に年の功を持っている」なんて風に実に明快な言葉で予言されている。「時代にも年齢がある」というここでの考えだって、私にとっては最近思うことのつもりだったのに、既に、というか殆ど自分が生まれた頃には、話のついでのようにさらっと述べられていたのだ。なあんだとがっくりきてしまう。

 そして、今の私ように若者が「自分よりすごいやつがいる」と知って挫折していくのも、ある種の老人力獲得の過程らしい。自分が無限に広がっていけるような自信を失うことは一見すると避けるべきことのように思えるが、挫折の先でこそ自分の効力の範囲が理解できるという。そしてその範囲の内部にも実はまた無限の広がりがあって面白いのだが、若いうちはそれに気が付かない。だから老いていくことにも意味があるというわけだ。

 老人力とは、老いて衰えていくことを、そこがいいんじゃない、とあえて肯定していくことらしい。

 また本書は、コンピュータ的あるいは論理的な社会は、今後息の詰まるものになり、その正しさ故にややこしい問題を生じていく、という風な可能性も示唆している。若者的に論理を重んじるからそうなるので、「老人力」を身に付けて論理というより趣味、いい加減を意識しようというのだ。全く現在にも通じる考えではないかと思う。随分早くから大事なことを知らせていたのだな、と感じる。

 『老人力』はこの令和元年に改めて読んでも意味のある本だった。家にあったこの本は古びてきているが、ページをめくる度、古い紙と前の家の匂いがしてそれが心地いい。一つ年上の私より、余程老人力があるようだ。