小学校4年生の時に、私のクラスは授業もままならない崩壊の状態になった。今思えば若気の至りで、非常に治安のいい、人気住宅街にある小学校で、先生や親たちを大変困らせた。最後には、担任の先生では歯が立たなくなり、校長先生と教頭先生が授業をしてくれるまでになった。授業と言っても、聞かない、遊び出す、逃げ出すと散々。そんな中で教頭先生が行ってくれた授業が、「読み聞かせ」だ。10歳を相手に本を音読する。聞かなくてもいい、寝てもいい、でも他のことは何もするな。そういって読み始めたのがこの「びりっかすの神様」だ。
転校生の始は、テストで“ビリ”になった生徒にだけ見える“びりっかすの神様”の存在に気づく。そしてびりっかすの神様と“ビリ”たちだけができる心の会話を通して、みんなで点数を上げて仲間をどんどん増やし、仲良くなっていく。最後には、それを知らない先生が仲間外れのようになってしまい、自分たちだけの力でやっていけ。とびりっかすの神様は消えてしまう。教頭先生はこの物語を通して、ビリの人もみんなが教えてあげれば勉強を頑張れるかもしれない。クラスの仲が良くなったらこんなに楽しい。さらには、仲間外れにされたら誰だって悲しい。自分たちはそのつもりはなくても、知らない間に誰かを仲間外れにしてしまってるかもしれない。なんて安直なことを伝えたかったのかもしれない。残念ながら、残り数ヶ月のクラスで、それを実行しようとした人はいなかったが。
5年生になり、クラスが変われば平和な学年に戻り、これまでのことはなかったかのように忘れ去られた。私も忘れていたのだが、しばらくしてふと思い出し、何を思ったか「びりっかすの神様」を図書館で借りて読み返し、他の岡田淳作品も全て読んだ。本をたくさん読む子は学力が伸びる単純な小学校世界で、いつしか私は授業をちゃんと聞いて、手を挙げて発言までする優等生になっていた。そして今に至る。
教頭先生が本当に伝えたかったことは今となってはわからない。しかし教頭先生の念が通じたのか、私の4年生のはっきりしない思い出には、そこら中にびりっかすの神様がはっきりとした姿で飛んでいる。友達に連れられて、率先して授業をサボっていた10歳の私。今思えば心のどこかで、こんなクラスになったら楽しいだろうななんて思っていた。手を挙げて、みんなちゃんとしようよ!なんて勇気もやる気もなかったが、寝たふりをしてちゃんと読み聞かせを聞いていた。彩りのない4年生の思い出を回想すると、びりっかすの神様が少し虹を架けてくれる。まさに作者が描いた表紙絵の光景である。何でもない日々に本が彩りを与えてくれたというのはよく聞く話だが、思い出になった日々にも彩りを与えてくれる力も持ち合わせているようだ。日々にたくさんの彩りを与えてくれる岡田淳作品。子供向けの作品だが、いつまでも心の奥底に残る作品である。