2018年12月21日 11時40分

現実と虚構を生きる

修理 香菜美

円城 塔 「バナナ剥きには最適の日々」

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 正直、知っているSF作家といえば星新一くらいだった。今回は技術描写がより優れている他の作家の作品を開拓してみたいと思い、ネットでハードSFのおすすめ本をいくつか探した。そこで目に留まったのが円城塔の『バナナ剝きには最適の日々』である。円城作品は「わからないけどおもしろい」と呼ばれているのが印象的で、そんな作家が描くSFとはどのようなものなのか気になった。今回は表題作含む全10篇から最も技術描写が優れかつ小説として面白いと感じた短編『コルタサル・パス』を選んだ。

 『コルタサル・パス』の登場人物は主に僕、クィ、ピーターソンの3人である。僕は学生で、休暇中の課題として「二十一世紀初頭の叙述設定」というテーマを選んだ。つまり僕は少なくとも二十一世紀以降の世界の住人だということがわかる。そして作中で発せられる言語は、私たちが使用する叙述とは異なる。クィは僕の課題を手伝う教師役の女性であるが、僕とは異なる「宇宙」に属している。そして、僕によればクィは実際には存在しないし、クィから見れば僕は存在しないのだという。僕とクィは「コム」という媒体を介することでのみつながっている。コムは端末を必要としない計算(computation)と情報交流(communication)の仕組みであり、異なる宇宙の住人ともつながることができる。僕はクィの指示で、コムの理論家であるピーターソン博士に会いに行く。そこでコムに関する二つの説について説明を受ける…という風に話が展開していく。

 デザイン・フィクションの視点から評価したい点はふたつある。

ひとつめに、僕が「叙述設定」を学んでいるという設定。未来の事柄を描くときに必ず直面するはずなのに無視されがちな問題として、「未来でも現在と同じように言語が扱われているのか」というものがあると思う。『コルタサル・パス』では学問として二一世紀の叙述設定を学ぶ描写を取り入れることでSFの言語における矛盾点を指摘しているように感じた。

ふたつめに、コムと呼ばれる架空の媒体の存在。先ほども述べた通りコムは端末不要で、計算と情報交流の区別を持たない。区別を持たないからこそ僕とクィはお互いに知り合ってはいるもののその存在を正確には認められない。コムはかなり飛躍した科学技術のように思うのだが、私は、例えば人間でいう脳のような、AIが疑似脳を持つなら疑似脳のような、思考の核となる部分に作用する埋め込み型のICチップを想像した。そのようなものが人間なら生まれたその瞬間、もしくは胎内にいるときから埋め込まれていたとしたら、コムはもはや端末不要媒体と言えるだろう。また計算と情報交流の区別がつけられないというのは今の私たち生身の人間には理解しがたいように感じるが、人工知能ならば今でも計算と情報交流が一緒くたに処理されていると言える。そんな技術が人間の脳にも干渉するようになるのではないかと作者は考えていると思われる。複数の事柄がひとつに集約されていくという流れは、現在のスマートフォンなどを見れば極めて自然な流れであるのではないか。物語中で人々(人では無いかもしれないが)はコムが発展したことでお互いの存在が認められなくなり、現実と虚構が入り混じる混沌の世界を当たり前に生きている。それが不気味でもあり、しかし現在の状況を鑑みても説得力のあるフィクションに仕上がっているのである。

#デザインフィクション演習