2018年12月26日 13時44分

手は盗めない

橋本一径

ジャン=ピエールボー 「盗まれた手の事件」

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 部屋は本に溢れているが、決して本が好きなわけではない。研究に使う本は必要な箇所を飛ばし読みするのがほとんどで、夢中になって読み通した研究書など、数えるほどしかないと思う。その数少ない一冊が、大学院生時代に出会ったこれ。『盗まれた手の事件』とは、法制史の研究書にしてはなかなか物騒なタイトルである。まるで探偵小説のよう。そういえばフランスには、『オルラックの手(Les mains d’Orlac)』という、ピアニストが殺人犯の手を移植した結果、手が勝手に殺人を……というB級ホラー小説があった。江戸川乱歩にも、切断されたピアニストの手が、ホルマリン漬けの中でピアノを弾くように動くという、美しくも悪趣味な短編がある。どうやら手の切断とは、人々の想像力を掻き立てるものらしい。

 本書の冒頭を飾るのも、フィクションの事件である。あなたの目の前に、人の手が落ちていたとする。それをあなたが黙って持ち去ったとしたら(何のために!?)、あなたは何の罪に問われるでしょうか。無罪放免、というのがこの問いの答えである。なぜか。人の落としたスマホを持ち去れば、間違いなく窃盗罪であるが、それはこのスマホが誰かの所有物だからである。ところが身体は所有物ではない。私は私の身体を「所有」しているわけではないから、それを売ったり買ったりはできない。しかしひとたび切り離されてしまえば、それはモノに変わる。そのモノには所有者がいないので、道端の落ち葉と同様に、それを拾っても誰も罪を問えない。いや、落ち葉ですら、厳密には誰かの所有物だろうから、落ち葉以上に、気軽に持ち去ることができる(お望みならば)。

 法の世界を構成するのは、人格とその所有物たちだが、この人格には身体がないのである。だからこそ、会社組織のような「法人」も、個人と同じ資格で、所有権などを持つことができる。こうした身体なき空間に、近代以降、輸血や臓器移植という形で、身体が顔を覗かせるようになる。突如現れたこの身体を、法律はどのように扱ってよいのかわからない。

 言い換えれば、法律の支配する世界に生きる私たちは、身体なきヴァーチャル空間に、はじめから生きているようなものだ。私たちは、生まれたときから言わばアバターである。ダイエットに励み、いつまでも若い身体でいることに憧れる私たちは、アバターの下から肉体が顔を出すのを恐れているのかもしれない。法制史という枠組みを超えて、想像力を刺激する一冊だ。


この書評に対するリレー書評:




2019年01月07日 13時44分

震える手

asana

羽生善治、吉増剛造「盤上の海、詩の宇宙」

 話す時に口は震え、指す時には手が震える。怒りで震えているわけではない。しかし、それでも震えは内からやってくる。震えは自分では止める・・・

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