2018年10月23日 15時43分

江戸川乱歩 『恐ろしき錯誤』

asana

江戸川乱歩 「江戸川乱歩作品集2」

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人間誰しも盲点なるものがありまして、意識のうちにありながら意識の対象にはならな いある点とでも申しましょうか、常に我々を不安に陥れ、動揺させるものがあります。い わゆるミステリーでは、盲点がよく取り上げられますが、それもそのはずで、犯人の完全 犯罪を頓挫させるのが、まさしくこの盲点だからです。犯人は、自分の完全無欠としか思 えない犯罪計画に自ら酔いしれ、さらには計画を実行しても、まさしく完全犯罪に終わる かのような様相を呈するのでしょうが、最後の最後で待っているのは、どんでん返しで す。自身の計画の致命的な欠陥--これが盲点であるーーに計画実行後に気づき、青ざめ ることになるのです。この欠陥に探偵が気づくのは時間の問題でしょうし、ミステリーに 出てくる探偵たちが、ホームズ然り、ポアロ然り、金田一耕助然り、古今東西の名探偵揃 いである以上、なおさら計画の破綻は時間の問題と言わざるを得ないのでございます。 さて、今回ここで取り上げるのは、江戸川乱歩の『恐ろしき錯誤』でございます。錯誤 というものは誰しもあるのでしょうが、完璧主義者の完全な計画の実行後に発覚する錯誤 ほど、背筋が凍りつくものはないのでして、とはいえこの『恐ろしき錯誤』の始まりは、 悲しいかな、素朴とでも申しましょうか、まだこの恐ろしき錯誤に全く気づいていないあ る男の内面の発露なのです。「勝ったぞ、勝ったぞ、勝ったぞ......」と呟くその発露は、そ の男の勝ち誇った内面、計画通りに全てが動いていること、この計画を作ったのがまさに 自分自身であること、これらすべてを意味しているのでしょう。なぜ男はこのように勝ち 誇っているのか、その理由が順に明かされていきます。男は結婚していて、その男の数人の 仲間からはマドンナと呼ばれていた女性と、めでたく一家庭を築いたのでございました。 ですが、男の幸せは長くは続かず、家が不審火により全焼してしまうのです。さらには家が 全焼するにとどまらず、妻が焼死体として発見され、最愛の妻を失うのです。男は悲嘆にく れ、残された赤子ともども泣き腫らす日々でしたが、そんな中、男の仲間の一人から奇妙 な話をその男は聞くことになります。火事の日、妻は燃えさかる家から一旦逃げていたに もかかわらず、なぜか家の中に再び飛び込んで行ったというのです。しかもさらに奇妙なこ とには、妻が家に飛び込んで行く直前、家の前にいた妻に対してある一人の男が近づき (どうもこの男というのが仲間の一人のようなのです)何かを囁いたというのですね。何 かを伝えられた妻は、決死の表情で燃え盛る家に飛び込んで行ったということなのです が、そうすると当然次の問いが生じましょう。火事の時妻に近づき何かを囁いた男はどこ の誰で、何を囁いたのか、と。妻は飛び込んで行ったわけですから、余程のことを呟かれ たに違いありません。 男は、それまで悲嘆にくれる日々でしたが、話を聞いたのを境に、この謎を解き明かそうと一心不乱になるのでした。それまでの悲しみのすべてを注ぐわけですから、それはも う異様な執着心で謎を解き明かそうとするのです。妻は自分たちのマドンナだったが、自 分はまさかそのマドンナを射止めることができるとは思っていなかった...、自分の仲間は 皆敵だったが、奴らも俺がまさかマドンナを仕留めるとは思っていなかっただろう...そう か奴らの中の誰かに妬まれたのかもしれぬ...。妻に家の中にあなたの子供がいるなどど悪意のこもった言葉を言ったのかもしれぬ。こうして男はまず自分の仲間を疑い始めます。 しかし仲間の誰かは全く分からず、しかも呟かれた唯一の証人たる妻はもはやこの世にい ないのです。そのため男は一計を計ります。妻は娘の時分大切にしていたメダルを結婚した 後も、手元に置いており、メダルの存在のこと男の仲間で知らぬものはいません。まず男 はこのメダルと全く同じものを複数作らせ、そのメダルにそれぞれ仲間の写真を一人ずつ 貼るのです。男の意図は、仲間一人一人に対して、火事の日妻に近づき悪意ある嘘を囁い た男がいることを伝え、その上で焼けた家から相手の写真を貼ったメダルが出てきたとい う話をすることで(実は妻はお前のことを思っていたのだと...)、相手の良心に訴えか け、そして相手の反応を見つつ犯人をあぶり出すというものだったのです。男の意図はま さに的中し、男の予想通り、仲間の内にメダルの話をするや否や明らかに異様な振る舞い をするものがいまして、そいつを問い詰め、徹底的に非難をして勝利に酔いしれていたと いうわけでした。

 相手を徹底的に痛めつけ、家路につく時も自分の完全なる計画に酔いしれていたこの 男、家に帰って熟睡し、10何時間の睡眠の後、久方ぶりの心地よさで目を覚ますのです が、この計画のために作らせたメダルの複製を前にしてふと我にかえることになります。自 分は途方も無い間違いをしでかしたのでは...、あいつに渡したメダルは、あいつの写真を 貼ったメダルだったのだろうか...まさか間違えて別の奴の写真が貼ってあったのを渡してし まったのではないか。いやそんなはずはない、そんなことがあれば俺の計画はもうすべて 台無しだ...。こうして男がとてつもない不安に襲われますが、まさにその時、男の家の女 中が手紙を持ってやってきます。もちろんこの手紙、差出人は妻を死に追いやったであろ う先ほどのあの男です。手紙を読んで、男はあまりの衝撃に高笑いをし、もう正気を保つ ことができなくなるのでありました(手紙の内容は明らかでしょう)。

 錯誤とは恐ろしいものと言わざるを得ません。しかもこの錯誤、何に由来しているのか といえば、まさに盲点に由来しているわけなのですから、我々にはこうした錯誤から逃れ る術はありません。完全無欠に見える頭脳の持ち主でさえ、この始末なのですから、もは や探偵というものが必要でないような気もします。どんな知能犯もこの大いなる錯誤によ って自身の犯罪を暴露してしまうわけですから、わざわざホームズやポアロを呼ぶことも ないとでもいいましょうか、ミステリーは別に犯人だけでストーリを作ることができるよ うな気さえしてくるのです。アガサクリスティーの『アクロイド殺し』や『カーテン』然 り、もちろん江戸川乱歩の『恐ろしき錯誤』然り、主人公が探偵でなくて良いということ を、もっといえば犯人だけでストーリが回ってしまうことをどこか教えてくれます。なぜア クロイドは主人公であることができるのか、またなぜポアロはカーテンの向こうで死ぬこ とになったのか、こうしたミステリーの面白さ、というのか、ミステリーの本質とでもい いましょうか、江戸川乱歩の『恐ろしき錯誤』は我々にこんなことを教えてくれるのでは ないでしょうか。