2019年05月09日 14時09分

あるがままの意味

島野史子

泉谷閑示 「反教育論 猿の思考から超猿の思考へ」

/* */ /* CONTENT AREA */ /* */

私たちは幼い頃から、現代社会の立派な一員になるべく親や学校などの大人から「教育」をなされる。自分の感情のままに動くワガママは「悪」とされ、大人の言うことをよく聞く子供はより「よい子」として賛美される。しかし感情の赴くまま、野生のままに生きることは本当に悪いことであるだろうか。

 本書では、人間の理性を「頭」「コンピュータ的思考」「サル的理性」であるとし、合理主義に基づいた現代の教育を痛烈に批判している。さらに、数値化することのできない感情を「野生」「心」「オオカミ的理性」と呼び、これらこそが人間という動物にとって本来重要かつ信頼に値するものであるとしている。人間は、科学の進歩と近代化に伴う合理化信仰、さらに「人間はこの世界に置いて特別な生き物である」という思い上がった心理から、「心は頭に劣るものである」と決めつけてきた。本来の感情を無視して損得や経済原則に乗っ取ったコンピュータ的思考で生きていくのでは、心に異常をきたすか、空虚な人生を送るばかりであると著者は説いている。野生に従って生きるワガママは「我がまま」と書くように、あるがままに生きることで人生に本来の意味を感じさせる素晴らしい行いなのだ。

 しかし先生や親の言うことを守り、和を乱さず、ただ暗記を繰り返すだけの勉強をこなし、言われたことをこなすだけの自分で考えることのない人間が社会では重宝される。現代社会ではこういったコンピュータ的理性が褒めそやされ、「善」であるとされる教育がはびこっている。本来人間はあるがまま全体で意味があり、その意味に善悪など存在しないというのに、人為的な二元論によって「善」が生まれ、「悪」が生まれた。道徳という絶対的で逃げられないエゴイズムと、それを押し付ける大人の偽善的な愛に嘘をつかれ続けた子供は次第に自分で考えることができなくなり、受動的なコンピュータとなって人生に意味を感じられなくなる。もしくは本来の心が無視され身体が悲鳴をあげるか、心から善い行いをできない自己嫌悪に陥ることもままある。

 著者は現代の理性が野生を支配する構造ではなく、野生(心)によって理性(頭)を活用する生き方が必要であると説く。興味や好奇心といった感情を発端として、頭が還元主義的に収集する因果関係からそれら物事の意味を読み取り、自分で改めて考えを巡らせることで新たな意味を作り出していく「創造的遊戯」が現代人に求められているという。

 私たちはいま科学と技術の発展により、全ての事象がコンピュータ的な思考によって数値化され分解され、構造が解明されたものでないと意味を認められない時代に生きている。感情や心などの分析できないもの(あるいは霊的なもの)は、よくわからない信用に値しないものとして下に見られてしまう。しかし人間も含めて全てのものはそもそもあるがままに存在し、あるがままに意味がある。存在を分解し、再構築したところで本来の存在の意味は理解できない。人間は「理性は野生に上回る」という決定的な勘違いから、心によってそれに気づくことができないのである。

科学で説明できないものは決してくだらないものではなく、得てして科学よりも重要であるという事実を現代の教育を始めとする社会システムは抹消している。技術の進歩によって新しく生まれるものだけでなく、それによって見失われがちな存在そのものが持つ意味に目を向けなくてはならない。なぜなら、人間が理性によって物事のあるがままの意味を完全に見失ってしまえば、世の中は全て合理主義に支配され本来人間の持つ存在の意味までもが失われてしまう。

野生によって理性を、心によって技術を使いこなし、本来存在していたのに今まで見えていなかった物事の意味を再発見していく「創造的遊戯」、そういった頭の使い方が社会と個人が自身の意味を感じながら生きていくために必要であると言えるのではないだろうか。

#CMR&D